戦争中から休止していた民間航空事業は、昭和二十六年十月日本航空の東京札幌(千歳)間が再開した(道新 昭26・10・25など)。開業当時からドル箱路線といわれ、二十九年には日本ヘリコプター(後全日空)が東京札幌間に参入し(道新 昭29・8・18)、その後も日本航空、全日空、北日本航空(後国内航空、さらに東亜国内航空)が、新型機の導入や増便などを行い競争を続け、国内各地と結ぶ路線も増えていった(道新 昭35・1・6夕、39・2・16など、北海道空港株式会社 20年の歩み)。一方、北海道での国内便の窓口となった千歳空港の整備も進め、三十八年には民間航空専用空港として運用されるようになった(タイムス 昭38・3・30、北海道空港株式会社 20年の歩み)。
札幌市内の丘珠空港は、一時北海道の空の玄関を千歳と争った(道新 昭28・8・31、33・11・20、39・5・27など)。札幌市では丘珠飛行場整備促進期成会をつくり運動したが、逆に住民から空港移転の陳情も出された(道新 昭33・5・20、41・8・14、19)。丘珠空港は、二十九年に「新国軍の航空基地」として管制塔などの整備が開始され、三十五年北日本航空が格納庫を建設、三十九年度にはターミナルビルが建設され、また三十一年空港整備法により道内各地方空港の整備が進められると共に道内便の路線を中心として路線を増やしていった(道新 昭29・10・4、35・7・17、39・4・13夕、40・2・16)。三十一年六月から札幌女満別、西春別間を不定期路線として開業し、三十四年六月から札幌稚内間、三十五年八月札幌函館間、九月札幌釧路間など路線を増やしていった(新北海道史第六巻、道新 昭31・3・9、34・5・10、35・7・19夕、7・24など)。