昭和二十八年ごろ札幌には卸、小売店が合わせて四七九五軒あり、一五世帯に一軒の割合で商店があった。また卸、小売店の地区別分布は、全体の約半分が中央、豊水、西創成の三地区、つまり札幌駅から南七条、創成川から西十一丁目付近に集中しており、特に卸売店は、総数八七二軒のうち南一、二条を中心に中央地区だけで三九三軒が集中し、問屋街を形成していた。一方小売店は総数三九二三軒のうち、中央地区四八七軒、豊平地区二六七軒、東地区二五九軒、西創成地区二三七軒、鉄北地区二一五軒で、厚別、藻岩などはそれぞれ一九軒、三一軒と少なく、業種では菓子店が五三八軒のほか八百屋、魚屋、各種食料品店など「たべもの屋」が上位四位までを占めていた(道新 昭28・8・6)。
一方二十五、六年ごろからは、かつては狸小路、すすきの、四丁目、駅前に限られていた商店街が商品の出回りや市の膨張とともに郊外に発展し、豊平、桑園、円山、西線沿線地区に新たな繁華街が誕生した(道新 昭26・1・4)。また、住宅街のひろがりは、民間市場の郊外進出をももたらすこととなった。二十七年九月ごろ、市内には三五カ所の市場に五一〇軒が営業しており、市全体の分布状況では、半数近くが大通、西創成、西、東、本府、中央など都心繁華街に集中していたが、円山、幌西、曙、北光、幌北、鉄東、鉄西、桑園などにも一三カ所、二〇五軒が営業しており、しかもほとんどが開業三、四年の新設市場で、これら地域における市場の増加は、豊平、白石、東北、苗穂などに比べ、はるかに多かった(道新 昭27・9・28)。
またこの傾向が顕著にあらわれたのは、市が露店商の「更生」政策として郊外への「更生市場」の新設を進めた二十八年のことである。これにより既存の業者のなかにも、一カ所で用が足りることによる集客力、共同店舗(市場、マーケット)、共同経営(簡易デパート)による経営の合理化や廉売など(道新 昭28・8・1)の長所に着目して、市場を新設する動きがでてきたからである。この結果、二十八年の八月までに四三カ所に増加していた市場や簡易デパートが、十一月までにさらに六カ所が開店を予定し、最終的には六〇カ所にまでのぼるのではないかとみられていた(道新 昭28・10・17)。
このような動きに関しては、山鼻地区のように地元商店街の反対や、一つの地区に四、五カ所もの市場が乱立して共倒れにつながる恐れが指摘される反面、価格競争により周辺商店街の物価も下落し、また購買力が市中心部に向かうのを防ぐため地元商店街の繁栄にもつながるとして、概ね歓迎された。また市内地域間の物価差の是正にも効果があり、二十八年の六月と十月に行われた各地域の物価調査でも、六月には鉄北、中央、山鼻、桑園、円山、東北、豊平の順で物価高だったのが、十月には山鼻、中央、円山、鉄北、豊平、東北、桑園となり、市場の増加がみられた鉄北、桑園地区の物価の下落が顕著にあらわれた(道新 昭28・11・8)。