では札幌市域における戦後の緊急開拓は、各地区でどのように進められたのだろうか。これらの地区は、表20にも示されているように戦前までの開拓ではその対象外と見做されていた特殊土壌地帯であった。すなわち厚別・小野幌といった平野部泥炭地帯、野津幌の台地重粘土地帯、そして真駒内・常盤・石山・三里塚・真栄・清田方面に広がる火山灰地帯である。これらの地域への入植は戦後の緊急開拓期に集中的に行われているが、厚別地区では第二次世界大戦中の昭和十八年に農地開発営団の計画した入植がみられた(農地開発営団は、昭和十六年の「農地開発法」制定によって設立され、自作農創設のために農地の造成と改良を行った)。以下、石狩開拓営農促進協議会編『石狩開拓のあゆみ』(昭38)によりながら具体的にみておこう。
厚別地区(東米里・米里・北郷・川下など)では、二十年に拓北農兵隊の大森区・板橋区出身者一〇戸など計三一戸が入植し、翌二十一年度に六戸・二十二年度に二戸・二十三年度に九五戸が入って集落を形成した。入植者は二十六年以降も続いた。入植時はほとんどが畑作経営であったが、泥炭地のために客土による土壌改良工事が進められ、三十年前後には水田畑作の複合経営農家が主流となった。
次に豊平地区では、二十年の拓北農兵隊の入地に始まり、二十三年・二十四年からは海外の引揚者が入植した。丘陵傾斜地のため営農は畑作経営が主流であった。真駒内地区には、地区計画ができる以前の二十一年に緊急入植者一一戸が入り、二十二年には道内離職者四六戸・樺太引揚者二二戸・満州引揚者二四戸・その他四戸の計九六戸が入植、二十三年・二十四年にも海外引揚者二六戸・二四戸がそれぞれ入植して開拓地が形成された。
石山地区の開拓も二十年の拓北農兵隊四〇戸の入地に始まる。彼らは石山市街で越冬の上、翌二十一年から開墾を始めた。さらに同年、豊羽鉱山の離職者など二六戸が、翌二十二年にも道内離職者八戸が入植して開拓地が形成された。地形的には傾斜地で火山灰性の土質のために収穫が悪く、離農者が相次いだ。このため石狩支庁は離農者の土地を整理して定着者に増反し、全区画を四〇戸に整理した。
平岡地区と三里塚地区は国道三六号線を挟んで左右に立地していたが、平岡には二十一年に地元から一二戸が入植し、三里塚には翌二十二年に地元三戸・朝鮮からの引揚者一戸が、二十三年にも樺太や内地からの入植者など一七戸が入って開拓集落を形成した。
札幌市の西南地区では、この他に小滝の沢・常盤・滝野・西岡・有明の各地区で開拓が進められた。このうち有明地区は戦後アメリカ軍によって接収されたが、接収解除後に地元の三二戸に対して約一五〇ヘクタールの土地を増反配分した。
札幌市の北部地区では旧篠路村の沼の端地区があり、敗戦直後に愛知県からの拓北農兵隊一三戸が入植したが、その後次第に離農して三~四戸に減った。福移地区にも愛知県から一一戸が入ったが、泥炭地のためほとんどが離農した。また、旧琴似町に属する発寒地区では、敗戦直前に拓北農兵隊一二戸が入地し、二十三年から三十年頃にかけて入植者の出入りがあったが定着したのは六戸だった。そこで、土地の再配分が行われ、営農面積は以前の一~三町歩から九~一〇町歩に拡大した。このほか、宮の森と小野幌にも入植者があった。
また、三十八年段階では札幌市と合併していなかった手稲町には、前田地区と星置地区の二つの開拓地があった。前田地区では、最初に触れたように拓北農兵隊が敗戦直前に一七戸入植したが後に六戸が離農した。その後二十七年に一戸、二十八年に二戸、三十二年に二戸が入り、平均経営面積は六町~七町五反歩となった。この開拓地の泥炭は良質だったので、燃料として市販することができた。さらに入植者の宅地と農地が別に分かれていたこと、増反した土地も別の地区にあって、開拓地全体が三つに分かれているのが特徴であった。星置には、二十一年・二十二年に広島県から四戸が入ったが、定着したのは一戸のみだった。