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食糧危機と供出制度

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 昭和二十年八月十五日、満州事変から日中戦争へ、さらに太平洋戦争へと拡大した一五年間に及ぶ戦争が漸く終結した。しかし、すでに戦時中から日本の食糧危機が顕著であったことに加えて、終戦の年の米の反収は、戦前期の三〇〇キログラム台に対して二〇〇キログラム余という大凶作となった。さらに、七〇〇万人の軍隊の解体、軍人も含めて外地からの六五〇万人の引揚げ、四〇〇万人の失業という状況下で食糧危機は極限に達した。この時期の農業にかかわる最重要の出来事は、農地改革緊急開拓事業農業協同組合の設立であり、これらについては本書のしかるべき箇所で取上げられている。これらは、各々農地問題、失業対策、農業団体の再建といった固有の重要性をもつ出来事であったが、他面では、食糧危機の打開という至上命令に答えるためにとられた措置という共通性をもっていた。
 昭和十七年二月に公布された食糧管理制度は戦中、戦後の食糧不足時代に、主要食糧(米、麦、いも、雑穀)の国家による直接統制、管理によって、消費者に一定の主要食糧配給量を確保することを目的としていた。その配給量を確保するための、農民からの主要食糧の集荷が供出制度であったが、それは非常事態のもとでは強制的な仕方で行われた。戦後に限ってみると、二十年十月、政府はいも・雑穀などを米の代替物として認める総合供出制と、供出割当の個人責任制を定めた緊急供出対策を公布したが、戦時下の統制力がなくなったために供出達成率は低下し、ヤミ流通が顕在化した。二十一年二月の食糧緊急措置令による新しい供出制度は、連合国最高司令官総司令部の権力をバックに、農家の未供出分を強制収用、強権発動出来るように定めた(ジープ供出)。二十三年七月、米の作付以前に供出量を割当てる作付強制を定めた食糧臨時措置法が、翌二十四年七月には、改正同法が次々と公布された。
 札幌市における米穀供出の実態を示す資料は至って乏しいようだ。まず、『札幌市事務概況』をみると、主要食糧供出に関する事項や、供出量の割当てを担当した食糧調整委員会(のち農業調整委員会)に関する事項が、二十年から二十四年までずっと最重要課題として位置けられている。二十五年以降には一般的事項の中に含まれているから、その違いは際立っている。
 また、『琴似新報』をみると、いまだ食糧危機が緩和されていない二十三年の供出シーズンが到来するとともに、「手稲村農産物供出状況」(10号、昭23・11・7)、「供出完遂 西八軒農事組合トップ」(13号、昭23・11・28)、「琴似町遂に主食供出完成なる」(14号、昭23・12・5)、「供出食糧完納 感謝演芸大会盛況」(16号、昭23・12・19)といった具合に、毎号のように大きく報じられている。
 しかし、「強制供出割当は相当にきついものであった。このため低収に終った農家は、自家保有米や種籾に当てたものまで供出して割当量を完納しなければならず、窮地に追込まれたものもあった。(中略)幾分でも供出を逃れてヤミ売り、横流し、それによって不足の必要物資を補充しようとする動きは村でも蔽えなかった」(篠路農業協同組合三十年史)こと、「供出割当量を達成できない農民の中には、米の横流しを疑われての自殺者、強権発動での検挙者も少なからずいた。(中略)この供出割当、強権発動は市町村内、集落内で様々なうわさ、ねたみ、そねみを生み、農村社会に深い傷を残し、その解消に長い年月を必要とした」(共存同栄 厚別農協創立五十年記念誌)ことなど、記憶されるべきであろう。
 なお、二十四年頃をさかいに食糧危機は緩和に向い、二十四年のいも類、二十六年の雑穀、二十七年の麦類など供出も徐々に廃止され、米の供出も二十六年産米からは経済ベースのものと変わり、割当は事後割当に戻った。三十年産米からは供出に代わって予約売渡制度が実施され、強権的出荷としての供出制度は終わった。