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「戦争未亡人」・母子家庭問題

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 労働省では、いち早く『女世帯生活実態調査報告書(東京都)』(昭24)をまとめたが、札幌市福祉事務所では二十七年二月、市内二三遺族会を窓口に「遺族実態調査」をまとめた。表1がその結果である。軍人・軍属合わせた戦没者三七二四人(三六三六世帯)に対し、「未亡人」数は五〇二人におよび、うち厚生資金を借りている者、借りたい者は、婦人世帯・母子家庭合わせて二二九世帯にも及んだ。また、同年三月現在小学校から大学在学中の遺児数は、九三四人に及び、多くが小学生以下の幼い子どもたちを抱える婦人世帯・母子家庭であることが分かる。一家の働き手を失い、幼い子どもを抱えた「戦争未亡人」問題は、この時期の大きな社会問題であった。生活困窮による生活保護の受給、母子寮への入寮、授産事業等、切実な問題に直面していた。
表-1 遺族実態調査集計結果
区分総数婦人世帯母子家庭
集計事項
死亡者数軍人数3,436
軍属数288
遺族世帯数3,636
遺族数7,262
未亡人数502
遺族のない数35
未亡人だけの数53
子だけの数68
父母だけの数2,147
祖父母だけの数8
遺族孫だけの数1
兄弟姉妹だけの数265
厚生資金借りている数321220
借りたい数19772125
在学中の遺児小学生数609140469
中学生数22749178
高校生数853649
大学生数13112
昭和27年4月入学の遺児小学生数22418
中学生数321220
高校生数862
大学生数440
生活困らない数22114477
生活保護を受けないでよい数756523233
生活保護を受けなければならない数19812771
生活保護を受けている数711952
生業資金借りている数1156
借りたい数512724
『札幌市事務概況綴』(昭27)より作成。

 いわゆる未亡人会は、二十三年の茨城県水海道町(現水海道市)をはじめとし、二十四年の東京都、神奈川県、富山県、千葉県などに、未亡人母子会など、それぞれの名称で結成された。二十五年には、「全国未亡人団体協議会」が組織され、その目的は、母子福祉法の制定であり、戦争犠牲者を多く含んだ「母子が生きるためへの抗議」として運動は広がっていった。
 北海道でも、二十七年七月、道母子金庫運営委員会(委員長・井口ゑみ道議会議員)で「母子金庫」の受付を開始した。戦争未亡人・未帰還者家族などで、一八歳未満の子女を抱えている母子世帯約二万一〇〇〇世帯を貸し付け対象とし、臨時緊急の生活資金を一世帯当たり五〇〇〇円以内、無利子、無担保で、短期間融通するのが目的であった(道新 昭27・7・11)。札幌市では、同年九月から福祉事務所母子金庫の申し込みを受付、十月末現在で一〇五件に及び、うち八七件、三九万二〇〇〇円が決定済みとなる好調な出だしとなった(道新 昭27・11・4)。一方、国による母子福祉資金の貸付等に関する法律の公布は二十七年十二月二十九日のことで、翌二十八年四月一日から施行された。札幌市でも母子家庭を対象に同年、生業資金四六件、一九七万円、事業継続資金六件、一八万円、技能習得資金一二件、三二万一〇〇〇円、修学資金二四件、六八万三五〇〇円の合計八八件、三一五万四五〇〇円の貸付が行われた(昭28事務)。
 母子家庭の住宅問題も切迫していた。多くが高い部屋代、間借り生活、肩身の狭い居候、借家にすし詰めといった生活を強いられており、母と子が安心して暮らせる母子寮への入寮希望者が殺到した。二十七年七月、円山母子寮が建築費五六〇万円をかけて開所し、希望者五〇世帯の中からわずか二〇世帯が入所した(道新 昭27・7・10)。
 母子寮の需要は高まるばかりで、二十八年三月現在、市内五カ所の母子寮には約四〇世帯が入寮しており、入寮待機者は約二〇〇世帯に及んだ(道新 昭28・3・15)。このため、夫が樺太で戦死した米田直江(大正七年生まれ。東区在住)の場合のように、銀行や母子家庭の貸付制度を利用して一戸建て住宅を入手したのは稀なケースであった。小学生の子どもを抱えて北海道電力に勤めていた米田は、当時市内で六畳一間の家賃が一カ月二〇〇〇円していたことから、子どもがのびのびと、我が家で育つことを望んで一戸建て住宅の建築を思い立った。まず、銀行の無尽(積立融資の一種)に加入し、一〇万円借り入れの資格を得、残りの資金は、母子福祉貸付制度から事業資金(自営業を始めるわけではないが、家がなくては、生業である会社勤めもできないし、日々の暮らしも成り立たないのだから、これは立派な生業資金になると自分を納得させて申し込み)として五万円(貸付は国民金融公庫札幌支所)を借り受け、二十九年夏に、建坪九坪、木造下見張りトタン葺、風呂付きの家が完成、引越しの日は子ども共々喜んだという(さよならからの出発)。
 「暮らしの向上を図るため互いに力を合わせて、母子福祉の増進に努めましょう」と、二十九年四月十一日、札幌市内の「母子家庭」約八〇人が札幌市労働会館に集まって大会を開き、「札幌市母子暮らしの会」(会長・梅田幸子)を立ち上げた(写真3)。母子家庭の組織化、就職の斡旋、市営母子金庫の創設、母子寮・授産所の増設運営などを会の力で推し進めようと、組織を作って各方面に働きかけて行こうというものであった(道新 昭29・4・12)。「暮らしの会」では、署名活動を直ちに開始し、翌五月七日、一五〇〇人の署名を添えて母子寮の増設などを盛り込んだ請願書を市議会に提出した(道新 昭29・5・8)。それを受けて五月二十七日付けで、石原通孝議員ほか一一人連名で札幌市議会に「母子家庭の自立に関する意見書」が提出され、二十九日原案どおり可決された(昭29二臨会議録)。意見書の要旨は、母子福祉貸付制度が発足したものの、最小限度に止まっており、実生活における母子家庭の医療、住宅、就職等の難問題に対して具体的な施策が確立していないため、社会問題を引き起こしている。そのため解決に向かって特段の努力をといったもので、第一に母子住宅の建設、第二に母親の就職斡旋とその子女の就職に対する援助の積極的対策の樹立・実施を目的としていた。

写真-3 札幌市母子暮らしの会の設立(道新 昭29.4.12)

 この年、母子福祉として具体的に実施されたものが幾つかある。まず一つ目が、この年の夏、札幌で開催された国体各会場に売店を開設、収益金一五万円を得たこと、二つ目に、市福祉事務所内に「札幌市母子後援会」が設立され、十一月末現在入会者が一一四人にも達したことである。会員は、民生委員、学校長、一般市民からなり、曙婦人会や米里婦人会は集団で入会するなど、関心は高く、会員が保証人となって中学や高校の卒業生の就職斡旋に乗り出すことになった(道新 昭29・12・1)。会員は、たちまち四〇〇人を超えた。さらに三つ目に、市福祉事務所が、二十九年九月一日現在の市内「母子世帯実体調査」を行い、福祉対策をたてる資料としたことである。それによれば、母子世帯は全部で二四九三世帯あり、母子世帯になった理由として、一般病死一三二一世帯がもっとも多い反面、戦傷病死三三六世帯・未帰還者四一世帯と合わせて三七七世帯という具合に、敗戦から九年を経過しても戦争の傷跡が色濃く残っているのがうかがわれる。
 未亡人の年齢別では、三五~四四歳に集中し、また、子ども数は、全部で五八二三人(一戸平均二・四人)に及び、うち約四二パーセントにあたる二四五八人は七歳から一三歳の子どもが占めているというように、戦争や敗戦時期との関係を色濃く反映している。
 収入においては、月一万~一万五〇〇〇円未満が七七七世帯(三一・二パーセント)、一万五〇〇〇円~二万円未満が三八四世帯(一五・四パーセント)、二万円以上が三〇七世帯(三・三パーセント)と金額ではまずまずに見えるが、三〇〇〇円以下が一五世帯(〇・一パーセント)、不明一〇一〇世帯(四〇・五パーセント)もあって、貧富の差は大きい。このため、総世帯の六四・九パーセントにあたる一六二〇世帯が「どうにか生きているだけ」と訴え、生活保護世帯は三九八、生活困難世帯三一四と、悪戦苦闘の様子がうかがえる。
 そのような状況下にあって、高校通学五七一人、大学通学八三人、合わせて六五四人が上級学校に通学していた。アルバイトで学費を稼ぐ者も多い中、母親の自力奮闘で通学している者が、高校四三一人、大学三三人もいて、「母の強さ」を遺憾なく発揮している、と周囲から見られた(道新 昭29・12・7)。
 全道的な母子家庭の組織北海道母子福祉連合会が結成されたのは、三十年三月十三日である。この日、札幌の労働会館に全道の二万人余の母子世帯が結集して第一回母子福祉大会を開催、全国未亡人団体協議会理事長山高しげりの講演があり、母子就職、住宅、母子福祉法など当面する問題について意見発表が行われた(道新 昭30・3・17)。三十年代に札幌市内各地域ごとに母子会が結成され、母子福祉法の成立(昭39・7公布)へ向けて活動が続けられた。