市内数十カ所に分散して駐屯していた軍隊(敗戦時二七三四人 市史第四巻)は、昭和二十年(一九四五)八月十五日の夜から多くの文書を焼却し、元兵員たちははやばやと復員して行った。
苗穂の陸軍糧秣廠札幌支廠は、大量の食糧を貯蔵し、さらに札幌近郊の国民学校にも食糧を分散保存していたため、敗戦時には膨大な食糧を保有していた(私の証言 北海道終戦史)。ところが、数日の間にその食糧が姿を消しはじめ、幹部が隠匿したという噂が流れはじめた。敗戦から一〇日ほどたって同糧秣廠に火災が発生し、それを機会に食糧の持ち出しが激しくなった(昭和20年の記録 さっぽろ文庫14)。
だが市民が眼にすることの出来たのは、軍隊が残した廃棄物であった。兵舎に残された破損兵器、シャベル、鍬等の農工具類で、食器などは市民が競って持ち去ったが、銃弾、銃砲類の整理作業には市内中学校生徒さえも動員された。
二十年十月、ある中学校では生徒たちが白石の兵器補給所へ跡片づけの勤労奉仕に行った際、好奇心からピストルや弾丸を持ち出し、米軍に捕まるという事件が起こり、その生徒たちは、二十二年一月十六日の札幌軍事裁判で有罪となり、懲役一年、罰金一五〇〇円~五〇〇〇円の重い刑を受けた(道新 昭22・1・18)。
「武器引渡命令に対する緊急措置に関する件」(内務省通牒 昭20・9・15)により学校、企業、個人も、武器の所持を禁止された。札幌市立中学校では、武器をそのまま校庭に埋めたため、元教練助教の密告により校長が処分される事件も起きた。札幌第一中学校では、木銃は鍬の柄に加工され、銃剣術の防具は解体されて革紐はバスケットボールの紐に転用された。
二十年十一月七日、北海道庁警察部が全焼し、焼け跡から大量の乾パン、煙草が発見されたことから、警察も隠匿物資をもっていたと評判となり、警察部長は道会で、煙草は帰国する朝鮮人に渡しそびれたものであると苦しい弁解をする一幕もあった(昭20通常道会議事速記録)。北海道庁は、隠匿物資等緊急措置令(昭21・2・17施行)に基づき企業・団体に、隠匿物資があれば二十一年三月一日までに長官に申告せよとの命令を出したが、申告するものはいなかった(市食糧委員会ニュース)。軍の隠匿物資は、二十年中に大半が消費され、二十一年五月に札幌市民食糧委員会が摘発を開始した頃には、ほとんど発見されなかった。
かつての「軍国少年少女」たちの気持を裏切ったのは、「物」の隠匿よりも「思想」の隠匿であった。かつての戦争指導者たちが、本心をかくして、「われこそは平和主義者」「わたしは民主主義者」と唱えはじめたからである。