反米運動は、右翼からはおこらず左翼から起こった。米ソの対立から米軍の対日政策が変化しはじめ、二十四年に中華人民共和国が成立すると、大学や日本共産党、朝連などに対する圧迫も強まり、それにともない左翼の反米運動が活発化した。
二十四年七月、GHQ民間情報教育局顧問W・C・イールズ博士が新潟大学で「赤い教授」や「スト学生」は追放せよという趣旨の講演を行って以降、各地の大学で同趣旨の反共演説を行い反発を買っていた。同博士は、二十五年五月、北海道大学を訪問した。十五日に行われた「学問の自由」と題する講演会と懇談会で持論を展開した博士に対し、学生たちが、翌十六日の公開懇談会で質問を求めて演壇に上がり、懇談会は混乱のうちに中止となった(道新 昭25・5・16)。北大は六月二十二日、退学四人を含む学生一〇人の処分を発表し(同 昭25・6・23)、伊藤誠哉学長は混乱の責任をとって辞職した。
二十六年に入ると、レーン講師赴任反対・州兵駐在反対集会(昭26・4・17)、自由労働者の特需関係就労拒否活動(四月)、真駒内の軍事アルバイト阻止事件(10・13)、共産党系の民主青年団の反米ビラ配付活動(八月末)、「石炭を朝鮮に送るな、日本人が掘った石炭は日本人に使わせろ」の赤ランプ事件(国鉄の貨物列車を停止させた=12・19)、自由労働者の反米ビラ配付活動(同年暮)が続き、「ゴーホームヤンキー」の声が、市内のあちらこちらから聞こえた。
二十七年一月二十一日夜、札幌市警本部警備課長白鳥一雄が、何者かによって射殺されるという、いわゆる白鳥事件が起こった。白鳥警部の経歴(元外事警察官)から、さまざまな犯人像がうかんだが、警察は日本共産党札幌委員会を疑い、札幌委員会円山「細胞」をはじめ、市内の共産党員をかたはしから取り調べ、札幌委員会委員長村上国治ら三人を逮捕・起訴した(北海道の20世紀)。
反米運動は独立後も続いたが、二十七年六月四日には、道内を公演していた前進座の公演妨害に抗議する事件が起きた。続いて七月五日には、日本青年を朝鮮に駆りだす準備の住民登録だとして、北大の恵迪寮で住民登録票焼却事件が起こり、九月七日にはアジア太平洋平和会議代表歓送大会阻止事件が起こった。