札幌市の公衆衛生機構と体制が整備され、衛生行政が本格化するのは、昭和二十三年六月十日、道立札幌保健所の市への移管とそれに続く七月一日、北海道内で一カ所設置のモデル保健所に指定されたことに始まる。旧保健所法(昭12施行)により、北海道内では北海道庁立保健所が旭川・函館両市(昭13設置)についで、札幌市(昭19設置)に開設されていたが、GHQは二十三年政令市制度を発足させ、人口一五万人以上の市を保健所設置主体とし、道内では札幌・函館・小樽三市が市立保健所を設置した。
二十三年の「保健所法」改正と、理想的運営を行うモデル指定により業務は拡大した。従来の疾病予防、保健指導に加え、上下水道・医療社会事業・清掃事業などの指導のほか食品衛生・環境衛生業務、試験・検査、および性病・結核・口腔衛生には予防的治療を実施することとなった(厚生省五十年史)。このため札幌市保健所は医師九人、歯科医師一人、獣医師五人、薬剤師三人、レントゲン技師三人、栄養士二人、保健婦二五人など、総勢一〇〇人以上の職員でスタートした。なかでも独立した衛生教育部門は保健看護係に保健婦を配置し、全市を分担し、担当区域の訪問指導を強化実施した。保健婦は、「皆モンペ姿で出勤した。道軍政部から突然制服をつくるよう命令が下り、以後は制服姿で颯爽と訪問に出かけた」が、当初は保健所業務への理解は浅く訪問先では保険の勧誘と間違えられたという(北海道保健所長会二十年史)。保健婦訪問による医療社会事業は、後に医療ソーシャルワーカーを配置し結核患者などの相談と解決にもあたる事業に拡大していった(道新 昭23・9・1)。
敗戦の混乱から五年が経過すると、市民の健康状態にも変化が現れてきた。二十五年に札幌保健所と市社会課とが協力し、東橋下の河原居住者集落の健康診断を行った。二三四人中一〇七人が受診し、その結果、胸部疾患(一人)、流行性感冒(一一人)、喘息(二人)、神経痛(二人)、流行性腸炎(一人)、皮膚病(二人)で罹患率は一般家庭と変わりなく、感冒はむしろ低い状態であった。しかしトラホーム(三四人)が二〇パーセント、梅毒検査の陽性は前年の二五パーセントから一六パーセントに減少していたが、市平均と比べると高率であった。保健所では同地区住民の衛生観念が向上した結果だとみながらも、豊平川の汚染による赤痢発生問題や慢性疾患も心配されることから、健康状態の向上をめざし集団検診を続行することにした(道新 昭25・12・29)。