衛生組合は、戦時下北海道庁令(昭15)により、公区・町内会に吸収・解散となった。さらに大政翼賛会に組み込まれ(昭17)公区内衛生部に再編成され、健民部・班(昭19)に改組、改称となると、従来の活動内容が防疫・衛生思想の普及や種痘、汚物清掃などの他に、体位向上や体力検定・結婚奨励をも含む国家のための健康づくりが目的とされ(市史四巻)、戦後も保健衛生行政を担う末端機構として機能していた。
二十二年一月二十二日、内務省はGHQの指令により、町内会・部落会は民主化を妨げるものとして、三月三十一日限りで廃止を命じた(内務訓令四号)。札幌市の公区は廃止の時点で二八〇公区・一九連合公区であったが、公区の内部組織・健民部も自ずと廃止となった。そこで、廃止に先立って結成された市公区制度審議委員会は、保健衛生や物資配給など市民生活に直接関係する組織の必要性を訴え、自発的な「市民会」を四月一日発足させた。だが、同会も政令一五号(5・3公布)に抵触する行政末端機関・町内会の類似団体であることなどを理由に、五月末をもって解散となった(道新 昭22・5・4)。
ところが、市衛生組合は公区(町内会)廃止直後の二十二年八月に復活した。厚生省の、「公衆衛生行政は末梢の民間ボランティアなくしては実施できない。(衛生組合役員を)パージからはずしてくれ」(石橋卯吉 占領体制下の防疫対策)という強力な要請に対して、GHQ/PHW(公衆衛生福祉局・以下PHW)サムス准将が、存続を容認したからであった。
市内では二十二年八月十六日、西創成第一衛生組合が設立、十一月段階で苗穂東官舎衛生組合、北光衛生組合の計三組合が結成をみた。かつて公区に吸収・解散した時点の五〇組合(昭15)に比べわずか三組合の僅少さは、結成へ向けて市民の対応が一様ではなかったことを物語っている。原因は西創成同組合の場合のように、改選されたとはいえ役員が政令一五号に抵触し、結局辞退者一人、不可が一人いたことなど札幌市のなかでも政令一五号の役員選出の解釈が誤解されるなど、情報が錯綜していた(昭和二十一年起 衛生組合ニ干スル書類綴)。
市は二十三年一月、衛生組合の急速な結成を元連合公区長・元公区長らに依頼した。各地区の民生常任委員が中心となり、住民による自主的な結成と運営が強調され、暫定的に作成した「衛生組合設置規約」に沿って設置が推進された結果(昭和二十一年起 同前書)、二十三年五月二十日には一一四組合が誕生し、さらに市衛生組合連合会を設立した(道新 昭23・5・21)。占領期の札幌市「衛生組合設置規約」(昭23・1)は、新憲法を意識して条文化した第一条(目的)以外は、大正十一年(一九二二)八月一日に施行された「札幌市衛生組合規約」と内容がほぼ同一であった。
戦前期に比し変化したことは、組織単位を各保健所担当区域としたことであった。全組合により市連合組合を、市町村全連合組合により北海道衛生組合連合会を組織する公衆衛生行政の末端機構であり、道衛生部、各保健所、市役所衛生課、出張所衛生組合の一連の指示系統が成立・再現されることになった。自発的開設と民主的運営が標榜されたが、組織図は戦時下の隣保班と同様で、保健所の外郭団体としての性格が濃厚であった。そのため二十三年八月三十一日をもって、衛生組合はGHQの指令により再び解散となった(昭和二十一年起 同前書)。解散時の衛生組合数は一三一であったが、大半が結成直後の解散のため、実質的活動は行われなかったようである。