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保健婦助産婦看護婦法の制定と改正

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 看護婦助産婦保健婦の戦後もまた、激動の幕開けであった。
 二十二年九月二十日、天使病院を会場にして、PHWによる全道の看護婦を対象の第一回幹部看護婦講習会が開催された。PHW看護課からミス・カルソンら講師数人が派遣され、道内の看護婦が集合し看護レベルの向上と近代的看護の実現を掲げての実習に臨んだ(天使病院75年史)。
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写真-16 第1回幹部看護婦講習会(天使病院 昭22.9.20)

 これより先の二十二年五月、従来の産婆助産婦に改称され、翌二十三年、保健婦助産婦看護婦の各規則を一本化した「保健婦助産婦看護婦法」(以下「保助看法」)が制定された。保健婦助産婦の資格を得るには看護婦の資格を持つことが条件となり、高等学校卒業後に指定学校(三年制以上)、または看護婦養成所を卒業し国家試験で看護婦資格をとったうえで、保健婦助産婦養成所を卒業しそれぞれ国家試験による資格取得といった、高学歴化と専門職化を一挙に図るものとなった。保健婦助産婦は知事の検定試験が廃止され(昭26)、国家試験のみとなったが、看護婦については高学歴のあまり資格取得者が減少する、医療の実状に合わなくなるとの医師らの反対により、二十六年、議員立法により「保助看法」が改正され、中学卒業後二年間の看護教育による知事検定試験の准看護婦制度がスタートした。
 しかし、三十年代に入ると市内の看護婦不足は慢性化し、三十四年に診療所一四八を調査した中央保健所の結果によると、一診療所の従業員数は平均すると医師一・一人、看護員二・二人でしかも看護員のうち看護婦有資格者はわずか二割の少数で、見習い看護婦が八割を占めていた(道新 昭34・11・18)。そのような状況下、成人病の増加や多様化してきた医療内容に対し、看護婦業務も高度化・複雑化し、加えて基準看護(昭33、旧完全看護)・基準給食・基準寝具の保険対象化など、看護体制の充実とともに業務量が増大してきた。看護婦不足が深刻な社会問題となり、養成対策として市医師会附属准看護婦学校が開設され(昭32・4・1)、住み込みで働きながら通学し、准看護婦資格を取得することが可能になった(昭44に看護婦科設置)。その後も病院・診療所の急増によって看護婦不足は解消されず、三十九年三月は、中学校卒業女子五一人が就職したが、市内の開業医院の不足看護婦は一二〇〇人にも及んだ(札幌市医師会史、読売 昭39・3・30)。
 一方、出産は病院で医師が行う医療行為であり、助産婦は看護職の一種だとするアメリカ方式は、明治期以来産婆と呼ばれた伝統的職業意識を持つ助産婦にとっては、大きな衝撃と抵抗感とを抱くものであった。
 二十二年、PHWに対し北海道連合産婆会会長の竹村マヤは、産婆看護婦の本質的差異について正常分娩の例を挙げ、「助産婦は医師の指示を受けずに独自の診察・判断・処置をできるが、看護婦は医師の診断・指示に基づいて看護業務を行う」ものであると、助産婦の独自性を指摘する持論を示し(北海道助産婦会五十年誌)、大日本産婆会を解散させたうえ、日本助産婦看護婦保健婦協会への統一合併とその下部組織になることを拒否した。
 市内の助産所数と助産所に勤務する助産婦数は二カ所・四人(昭33)、二カ所・一五人(昭40)と少なく、助産婦の大半は、黒鞄を片手に自宅分娩に出向く自営の出張助産婦であったが、その数は三十三年の一五三人から四十年には一四〇人に減少した。しかも客である自宅分娩は、二十二年当時八五パーセントを占めていたが、三十五年には一六パーセントに激減し、四十六年にはわずか二パーセントとなった。逆に病院・産婦人科医院での分娩は一二パーセント(昭22)が九四パーセント(昭46)に増えた(人口動態統計、北海道衛生年報、市衛生年報)。
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写真-17 自宅分娩は急速に減少した

 このような自宅分娩の激減により、「その家庭に入り、親子三代は言うに及ばず親類縁者知人までもこの産婆さん以外に産婆はない」(北海道助産婦会 前書)と、信頼を得ていた開業助産婦職は姿を消しつつある。だが、少数だが助産所が皆無とならないのは、絶対的信頼や役割見直しも存在しているからである。三十年代以降、出生率の急激な低下と受胎調節、それに人工妊娠中絶の急増が拍車をかけ、助産婦の戦後改革は開業助産婦の衰退に向かった。