PHWの指示により、日本産婆会、帝国看護婦会、日本保健婦協会が解散・合併し(昭21・11)、日本産婆看護婦保健婦協会となったことから、下部の北海道連合産婆会は解散(昭21・4)した。PHWオルト看護課長が北海道衛生部を通じて北海道連合産婆会会長の竹村に、「北海道産婆会が頑迷で、日本助産婦看護婦保健婦協会に合流しないのならば、助産婦を廃止し医師に助産の業を取り扱わせる」と申し入れてきた。竹村は「廃止されては全国五万人の助産婦が職を失う」と承服した。結成総会にはオルトが臨席し、保健婦・看護婦を合して日本助産婦看護婦保健婦協会北海道支部(昭22・9・22)と、各地方支部(札幌支部昭22・3・3)を結成し、竹村が支部長に就任した(日本看護協会北海道支部20周年記念誌)。
一方、看護協会の設立について看護婦の立場から、元札幌医大附属病院看護婦長・高須キサは「日本の看護は変わっていく、否変えるように皆一致団結しなければならない。終戦で打ちひしがれていた心にぱっと光が灯されたような張りと強い感動に血の騒ぐのを」覚えたと、語っている(同前書)。その後三者が独立し活動するため、二十九年看護協会を統括組織としながら助産婦会、看護婦会、保健婦会の各支部制を採ることになった。
占領期の医療政策は、戦前・戦時下に蓄積されていた制度や機関、人材を「利用」しながら、現在の医療・公衆衛生の基礎を成立した。