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小児マヒ大流行

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 札幌の小児マヒは三度の流行に襲われた。一度目は二十四~二十六年(患者合計一一九人・死亡七人)であり、二度目は札幌が中心の三十一~三十三年(同八六人・同七人)、三度目の波は三十五年前後(同一五一人・同六人)で、二十三年から間断なく発生し、終息した三十八年までに合計三七六人が罹患、うち三一人が死亡した(六章六節 表32参照)。
 最大の流行となった三十五年は夕張に流行の火の手が上がり、瞬く間に道内に広がり札幌市内入院患者二二四人(市内在住者一三一人)・死亡二人の驚異的な発生となり十二月にやっと下火となった(昭35.12現在道内一六四三人・死亡一〇六人)。小児マヒはポリオウイルスが飛沫感染により伝播し、主に免疫抗体を持たない二歳未満の乳幼児に感染した。市では臨時小児マヒ対策本部を設置(昭35・7・20)、市立札幌病院鉄の肺を配置(昭35・8・29)、白石・新琴似・北円山三地区(約一〇〇〇世帯)を多発地区に、山鼻ほか六地区を強化地区に指定し(昭35・9・15)、児童公園や保育所、幼稚園などをDDTやクレゾールなどで薬剤消毒した。同年九月には札幌に流行が移動したが、対策はソークワクチンの接種と薬剤消毒、患者の隔離収容程度以外に方法はなく、頼みのソークワクチンも市内約六万人の乳幼児のうち、わずか一八七〇人が予約接種できたに過ぎず、家庭環境の清潔と免疫力をつけるよう注意を喚起するしか方法は無かった(市衛生年報 昭35)。この間小児マヒは三十四年六月十五日に指定伝染病となり、患者の治療費は公費負担(国・北海道・札幌市の三分割)となった。
 罹患した乳幼児は、最初風邪に似た症状と高熱が二、三日続きマヒが始まる。マヒは手足や呼吸器系を冒し呼吸困難となることから円筒形の鉄の肺に入れ、空気の圧力で強制的に呼吸させた(写真4)。その鉄の肺も不足し街頭募金が開始され、北大・札医大・市立病院などへ米国小児マヒ財団からの借用や国産品を集合させ、三十五年八月末には道内に一一台となった。呼吸マヒの患者発生地へはつなぎ役としてレスピレーターを積み駆けつけ、札幌に搬送し鉄の肺に移したが、呼吸中枢が冒された子は回復せず結果的に半数は命を落とした(河喜多愛郎 小児マヒ)。

写真-4 不足する〝鉄の肺〟に募金活動も開始された。(道新 昭35.8.31)

 ソークワクチン不足に対し三十五年八月九日、市議会へワクチン輸入促進と接種費用の全額国庫負担を求める請願(北海道勤労者医療協議・菊水支部、四五三七人、他1件)が出された。これを受けた市議会では、同年九月二十六日にワクチン輸入・予防接種の法制化・試験研究検査機関の整備措置などの要望を盛り込んだ意見書を可決、総理大臣を初めとする各関係大臣宛に提出した(昭35 議決書類)。ほかにも、札幌地区労が「子どもを小児マヒから守る協議会」を結成(昭36・1)し、上部の全道労協主唱による「北海道子供を小児マヒから守る会」結成に連動させ、北海道医師会等の調整を経て、三十六年三月四日、官民三七団体五〇〇人の代表が集い同会が結成された。小児マヒ撲滅を目標に、ソ連大使館、日ソ協会、国会への請願運動が展開された(全道労協運動史)。全国的にも大陳情運動となり、三十六年七月、厚生省はソ連の「経口生ワクチン」一三〇〇万人分の緊急輸入に踏み切り、市内でも七万三五〇〇人が服用した結果、三十六年は一〇人(うち市外二人)の発生に止まった(厚生省五十年史 市衛生統計年報 昭36)。その後市は輸入生ワクチンを感染の危険性が強い年齢層全員に投与し、加えて自然免疫力が功を奏し三十八年を最後に発生はわずか一、二人となった。
 死を免れても、脳性マヒや四肢の後遺症は幼児にとってその後の人生に大きな苦難を伴うものとなった。四肢後遺症のリハビリ医療施設として、北海道整肢学園(昭27 琴似町=現西区琴似に設置)に三十六年十二月、母子入院治療を行う設備が改築された。しかし一カ所では対応しきれず、三十七年九月、市は西保健所(大通西19)内に通園治療仮施設・マザーズホームを開設、四十年一月に北海道小児マヒ財団(昭36・7・24設立)が、東区に同ホームを新築移転し業務を開始、豊水小学校に肢体不自由児特殊学級が開設され学童訓練が始まり、四十六年には札幌市へ移管されてみかほ整肢学園に改称した(札幌市社会福祉施設総覧 昭50)。患者の親が集まり「小児マヒ父母の会」を結成、リハビリ体験談や講演会などを開催し相互に励まし合う交流活動が続いた。