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家族計画と人口政策

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 終戦後の生活難からヤミの人工妊娠中絶が急増した。それに伴い妊婦死亡率が高くなったことを考慮し、母性保護の見地から人工妊娠中絶を合法化したのが「優生保護法」(昭23・9・11施行)である。しかし依然としてヤミ中絶が増え続けるため、二十四年の改正で人工中絶理由に経済的困窮を認め、続く二十七年の改正では審査制を廃し、手続きを簡略化し指定医のみの判断で行えるようになった。札幌の人工妊娠中絶届出件数(市外患者を含む)は、表16のように二十七年の改正により増加し八三〇〇、翌二十八年に一万を超え、ピークに達した三十一年は一万二〇〇〇で、同年は北海道全体の件数もピーク(八万五〇〇〇)となり、冷害・凶作・凶漁に起因する生活困窮状況が如実に反映したものと考えられる。二十六年の中絶数は出生数とほぼ同数であり、二十七~三十一年は出生を上回る中絶となり、しかも実態はこの数倍と予測されることからも、ベビーブーム(札幌は21~25年)を完全に終息させる結果となった。
表-16 人工妊娠中絶数と出生数
年次出生数人工妊娠中絶出生数100対
人工妊娠中絶
昭258,3454,68156
 268,0347,11889
 277,3038,319114
 287,344(10,000)136
 318,80012,000137
 328,9588,39994
 3410,3847,10368
 3611,6457,91668
 3813,6947,49655
 4016,37010,24563
 4219,23510,97557
 4419,86710,88555
『市衛生統計年報』より作成。
1.人工妊娠中絶届け出数は市外在住者も含む。
2.昭和28年は概数。

 人口政策は明治期以来、富国と戦争協力のため「産めよ殖やせよ」を基調に出産を強要し、中絶は戦時下の「国民優生法」(昭15・5)や堕胎罪によって取締まりの対象とされてきたが、戦後の人口政策は食糧難による「一千万人餓死説」や、母体保護が閣議了承(昭26・10・26)されて急転換し、このように国策による抑制の方向へ激しく動いた。
 札幌の「理想の子ども数」調査の最多の推移をみると、二十四年に五人(32パーセント)、三十八年に二人(59パーセント)、四十三年に三人(43パーセント)、四十七年に二人(59パーセント)に減少している(道新 昭24・5・8、各保健所報)。二十四年は北海道の数値のため都市部の札幌は五人より低いものと推察され、同年全国が五人を理想としたのはわずか一五パーセントであったのに比較して、北海道の三二パーセントは全国よりも多産を望み、実際に出生率は全国よりも高位で推移した。しかし札幌の人工中絶数は全国と比較すると常に高く推移し、意識的に少なく産んで丈夫に育てる「少産少死」時代へ急速に移行していく。このような急激な出生率の低下の背景は、都市化と工業化社会への移行によるものであったが、受胎調節の浸透には、家族計画実地指導員(昭27年医師・助産婦保健婦又は看護婦を任命)による大規模事業所への指導の効果も大きかった。市内の国鉄苗穂官舎(五〇〇世帯)や日本通運札幌支店(八〇〇世帯)、電電公社北海道通信局では、企業・労組・主婦グループが一丸となって家族計画指導員を招き、会社が費用の一部を負担し労働対策や母性保護対策として主婦への集団・個別指導を実施した(道新 昭33・4・4)。三十六年当時白石保健所の家族計画実施指導員・松浦二枝は、受胎調節指導に豊羽鉱山株式会社へ出かけ、会社の希望で仕事を終えた夜六時~八時に夫婦で集まってもらい、家族計画の国の通達や目的を説明し、具体的な方法は器具や薬品を見せながら教えた。「時には野次も飛んできたが実は深刻な問題だとみな理解していた」と語る。中絶される胎児の生命の尊重と母体への悪影響から、人工妊娠中絶を避けて受胎調節を行う「望まない妊娠」を、女性自身が選択できる時代へ移行しつつあった。