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食糧難と学校

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 札幌市の食糧の遅配は、昭和二十年九月より始まった。この年が全道的に冷害・凶作であったことによる。二十一年に入ると食糧危機は必至となり、「市民食生活に絶大な脅威を与へしめるに至り、全市民挙げて不安動揺の極に達し」た(昭21事務)。「手持ち僅かに五日分」(昭21・3・8)、「新薯 八月の主食に登場」(昭21・8・9)といった記事が『道新』にみられる。
 戦後の食糧難の学校への影響は、まず援農の継続という形であらわれた。二十一年五月現在で、一万人からの申し込みがあり、道庁学務課でも「終戦後といへども食糧増産の重大意義は何ら変ることなく、従つて学徒の援農は積極的に出動すべき」(道新 昭21・5・6)という立場をとった。これは強制ではなかったが、学校側では問題視された。たとえば同日の『道新』は、庁立札幌第一中学校の安延三樹太校長の談話を掲載している。それによれば、「現在の三学年の学力は戦時下通年勤労奉仕のため昔日の二年生くらいのものと考へて間違ひないほど低下してきている」という学力低下の問題と、「作男を使うよりは学徒の方が安いとの打算的な考へ、あるいは米の横流しなど生徒の目前で行つて」いるという教育上の問題を指摘し、援農中止の考えを述べている。
 食糧難は学校の午前授業や休校という事態も生んだ。文部省は二十一年六月に「食糧危機突破対策」を発表し、状況によっては日曜以外に休日を設けてもよいとした。庁立札幌第一中学校では同年五月から毎日四時間とした。弁当持参が不可能な生徒が多かったからである。生産休暇と称して六月と九月にはそれぞれ十日間の休暇を設けた(北海道札幌南高等学校 百年史)。生産休暇北海道第一師範学校などでも行われている。さらに道庁では二十一年六月に食糧危機突破対策の一環として国民学校および中等学校生徒に対して食糧疎開を通達した。それによれば「受入可能地方に縁故先のある者に対して極力同種学校への転校を勧奨する」とある(道新 昭21・6・28)。また、学力低下を防ぐため毎日簡単な宿題を課すことなども示されている。
 戦中、戦後の食糧難は、児童の体位に大きな影響を与えた。『道新』(昭21・8・29)には、都市部代表としての札幌市と農村部代表としての上川管内の国民学校初等科六年生の体位を、昭和十六年と二十年で比較した調査が掲載されている。それによれば、札幌市男児の身長は二・七センチメートル減で、上川管内のそれは二・〇センチメートル減、札幌市男児の体重は一・五キログラム減で、上川管内のそれは〇・一キログラム増となっている。この傾向は女児でも同様であり、戦争の影響は都市部の児童により強くでている。戦後の食糧難は、このような状態にさらに追いうちをかけたものと思われる。