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社会教育の地域性

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 戦後の社会教育行政の展開には、学習の主体をなす住民の階層性と地域の社会経済構造とが密接にかかわってきた。とくに札幌市では昭和二十五年から四十二年にかけて周辺町村の合併が相次いで行われ、そのことが市内の地域構造と市の行財政の中における社会教育行政を条件づけてきた。
 札幌市は、昭和二十五年(一九五〇)に白石村、三十年に琴似町・札幌村・篠路村の三カ町村、三十六年に豊平町、四十二年に手稲町をそれぞれ合併した(一部編入などを除く)。この期間における札幌市の農業就業人口をみると、二十五年は約七〇〇〇人であったが、三十年には約一万三〇〇〇人に増加しており、その増加数は琴似町、札幌村、篠路村の合併にともなう農業人口の吸収とほぼ見合っている。その後、農業就業人口はやや減少して四十五年には約一万一〇〇〇人となっているが、それは都心・市街地における農業就業人口の急激な減少と豊平・手稲両町の農業就業人口の吸収との相殺の結果といえる。したがって札幌市は少なくとも四十年代まではその行政区画内に農村地域と農業人口を内包してきた。
 他方、この間に総就業人口は、二十五年の約一一万一〇〇〇人から、四十五年の約四七万五〇〇〇人へと四倍強に増大している。これは都市勤労者の急増によるものであり、それは産業教育、職業教育・訓練を求める人々の増大に直結する。
 札幌市の社会教育にみられる地域性(農村的性格と都市的性格の併存)とその変化は、このような地域構造の変貌を反映しているといえる。
 また、教育費に関しては、他方で人口の急増にともなう学校教育施設の拡充が求められていたために、社会教育費の拡充には少なからず制約をともなった。ちなみに、戦後から四十年代の期間において教育費に占める社会教育費の割合をみると、三~七パーセントの範囲でおおむね横ばいで推移した。札幌市の公民館にたいする独自の見方や社会教育における学校開放の積極的活用もこのことと無縁ではなかったといえる。