舞台関係者の間からは、戦前の公会堂を改称した市民会館に代えての、新たなホール建設が望まれていた。新しいホールについては、大通西一丁目で、豊平館を残しながらの建設案も示されたが、結局豊平館は中島公園に移築されて結婚式場などに利用されることが決まり、移設された跡地に市民会館が新築された。
本格的なホールの建設は、道内の先陣を切ってのものだった。開館したのは昭和三十三年七月で、一五九二の座席数は格別の大きさだった。スタインウェイのピアノが備えられ、地元勢の演奏や舞踊、NHK交響楽団演奏会などが開館を飾った。
三十四年三月から「札幌市民劇場」がスタートして、月二回のペースで市民に発表の場が提供されていった。三十五年八月に始まった特別公演は、団体の垣根を超え、地元の舞台関係者が力を合わせて舞踊、音楽などの大きな作品を作っていくという、それまでにはない制作形態だった。市民会館という場の誕生が舞台関係者の間に協力態勢の整備を促し、新たな作品を生み出していったのだった。
民間でも、三十八年に七〇〇席の道新ホール、四十二年に六五〇席の共済ホールが生まれるなどし、冬季オリンピック開催を翌年に控えた四十六年には二三〇〇席の北海道厚生年金会館も開館した。会場の複数化と多様化に伴い、舞台の世界は、催し物の規模や内容に応じて会場を使い分ける時代に入っていった。