講談社や青磁社のような疎開出版社の活動は、地元の出版業者に強い影響を与えた。GHQの政策によって戦前の統制は一掃され、出版統制団体であった日本出版会は解散し、自主団体である「日本出版協会」となった。同時に印刷用紙の配給権もここに継承された。日本出版会北海道支部は、日本出版協会北海道支部となり、道内で書籍や雑誌を刊行する場合、出版社は印刷用紙の配給を受けるためにも同協会に加盟する必要があった。同支部加盟の出版社(各種団体を含む)は、『出版年鑑』(昭21・4刊行)によると、昭和二十年暮れから翌年始めにかけて、全道で二八社となっていたが、二十二年五月には一〇六社、二十三年十一月には一二五社となり、ピークに達した。このうち、札幌の出版社は九八社となっている。北方出版社を除いて、ほとんどが二十年十月以降に設立された新興出版社で、個人経営や一冊のみの刊行に終わったものもあった(出村文理「戦後北海道の出版事情」)。
疎開出版社がどちらかといえば文芸誌が多いのに対し、地元出版社の出版物は、当時の食糧不足を反映してか農水産書類が多い。また、自然科学書や児童書・児童雑誌等の刊行が見られたことも、この時期の特色といえる。
谷暎子「戦後北海道で出版された児童出版物」によると、児童書が北海道で多量に出版されたのはこの期をおいて他になく、その多様さにおいても際立っているという。代表的な児童誌は二十一年四月に創刊された「北の子供」(新日本文化協会)で、童話、童謡、絵物語等の文芸作品、評論、北海道の自然、歴史等の頁のほか、子供の作文や詩の投稿欄もあった。
この時期、全国的に多くの雑誌類が刊行されており、北海道も例外ではなかった。道内で刊行された雑誌の中で、全国的にも高い評価を受けたのは、『北方風物』(北日本社)、『至上律』(青磁社)、『文芸復興』(日産書房)等である。北日本社(のち北方書院)は、古書店・尚古堂書店の代田茂が経営する道内資本の出版社である。『北方風物』は二十一年に創刊された月刊の雑誌で、毎回「南瓜の巻」や「早春の巻」といった主題を設けて、それに関連する随筆を掲載した。執筆者には、柳田国男、高村光太郎、室生犀星、斎藤茂吉等錚々(そうそう)たる人物がいた。
急激に増えた出版社は札幌の印刷業界に「印刷インフレ」を起こさせ、印刷所は満員の盛況であったという(生物 第一巻第二号)。疎開してきた本州の出版業者の指導と、多くの書籍を手がけた経験から、印刷会社の技術も飛躍的に向上した。