GHQは旧体制の破壊と言論の自由化という目的を、地方紙の助成と新興紙の育成によって達成しようとした。用紙割当委員会もこの政策に則り、新興紙に対して優先的に用紙の割当を行った(日本新聞通史)。
戦前の制限法規が撤廃されたことと、こうした新興紙に対する優先的措置もあって、昭和二十一年は全国的に新聞の創刊、復刊が相次いだ。道内では、それまで戦前の一一紙を統合した『北海道新聞』(以下道新)が優位な地位を占めており、これに対して新しく新聞を創刊することは困難な状況にあった。そのため、当初は各都市、各地方のみを目標とする週刊あるいは旬刊紙の散発的な発行が見られる程度であったが、この年になって有力新聞人の創業が本格化し、『新北海』『夕刊北海タイムス』(ともに札幌)、『北海日日新聞』(旭川)、『函館新聞』等の日刊紙が相次いで発行された(昭22道年鑑)。
『新北海』を創刊することになる山口喜一は、終戦の年に北見を訪れ、地元の有志から「広い北海道に新聞が一つしかないのは不便だ。ことにわれわれ百姓の読む新聞が欲しい」(老新聞人の思い出)との注文を受けた。翌年には、新聞の民主化運動や労働争議の高揚によって、「公正な世論を盛った道内紙を」との声はにわかに強まった。
読売新聞本社は、この頃北海道進出をもくろんで「北海読売」(南大通西4丁目)の建物を新築していたが、道新同様労働争議にみまわれてやむなく売却することとなり、山口はこれを買い上げ、二十一年五月三十日に「株式会社新北海新聞社」を創設した。
終戦直後の物資不足と資材購入難のため工場設備が遅れ、七月初旬に予定していた創刊号の発行は八月三日に持ち越された。発行部数は、用紙の割当により七万部であった。
同紙は二十三年六月十五日に「炭鉱版」の新設、同九月十五日には出版局を新設して月刊「北海経済新報」(二十四年九月で廃刊)を創刊した。二十四年一月には週二回発行の「新北海中学生新聞」(九月に中学生タイムスに改題)を創刊するなどの活動を行ってきたが、十月に「有限会社北海タイムス社」と正式に合併することとなり、題号を「北海タイムス」と改めることになる。