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氏子崇敬者の生活にねざす祭祀

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 公的財源と小作収入が途絶えた神社は、神職への給与にも困窮した。氏子組織からの収入も戦前のようには期待できなくなった。法人として自力で収入の道を切り開くために、末社、境内社を造営したり、人生儀礼の私祭や節季行事などの祈禱によって崇敬を集めることが求められた。
 札幌神社の場合、二十二年、頓宮に分霊を奉遷して末社とした。十月一日に例祭を執行するとともに在外同胞安全祈願祭を行い、境内では、子ども神輿の渡御、神楽奉納、子ども相撲、義太夫などの奉納があった。頓宮への分霊は、以前からあった一日講社の講員など地域の要望をふまえたもので、例祭は市内中心部の秋祭り(四十六年からの例祭は九月十五日)に位置づけることができる(神宮史)。手稲神社では、二十二年、林業に従事する人々の信仰に応えるべく、手稲山の山頂にあった山神の小祠を奥宮として建立した。宮司と氏子有志は「一念発起、山道事情の悪いなか、社の基礎に必要な石材、セメントはもちろん工事用水も一升瓶に詰め、リュックを背負って」一〇二四メートルの山頂をめざしたという。また、同じ頃に、藤白龍社も建立している。これは、境内の藤棚の辺りにあったクリの古木に棲みついた、二匹の白蛇に由来する境内社で、以後、奥宮祭に登頂する前には、藤白龍社を参拝することが慣例となっている(手稲神社史)。
 宮参り、七五三詣、結婚式などの人生儀礼や、初詣、豆まきなど節季の祈禱も積極的に行われるようになった。二十四年には、札幌神社と市内の各神社が申し合わせて、七五三詣を一カ月繰り上げた十月十五日に行うようにした。北海道の気候を考慮したわけだが、晴天確率の高い十月に移すことで参拝者の増加を見込んでもいた。この時、新聞に日程繰り上げを掲載して市民への周知をはかったところ、札幌神社での祈禱は二七件あり、四年後の二十八年には二四一件に増加している(神宮史)。
 神前結婚式は、戦前から札幌神社で行っていたが、戦後は末社となった頓宮でも行うとともに、結婚式場に特別神璽を奉斎して出張奉仕するようになる。その嚆矢(こうし)は、二十七年の大通会館である。ここは、着付けから挙式、披露宴が同じ会場で実施できる結婚式場として新設したもので、翌二十八年には北家の結婚式場にも特別神璽を奉斎している。
 札幌神社の初詣は、大正十二年に市電が円山公園まで延長したことにより、翌年から参拝者が増え、昭和十四年には一二万人になっていた。敗戦直後の初詣は低調だったが、二十五年には一〇万人の参拝者を数え、翌二十六年は一五万人に増加し(神宮史)、これ以降は毎年、記録を更新するようになる。