昭和三十四年は、プロテスタントにとって安政六年(一八五九)の宣教師渡来から数えて一〇〇年目にあたり、全国的に宣教百年を記念する行事が開催された。札幌では八月に札幌キリスト教連合会の主催で記念音楽礼拝が、北星学園を会場に開催された。また、十二月には、市民会館を会場に超教派による市民クリスマスが催され、以後恒例となった。この年、これも超教派の北海道マスコミ伝道センター(ホレンコ)が創立、HBCなどでラジオ放送を、後にはテレビ放送も行った。カトリックでも同年六月、全道向けのカトリック放送をHBC(後にはSTVラジオにおいても)で開始した。
三十七年から四十年にわたって開催されたカトリックの第二バチカン公会議は、教会の現代化を目標とし、外に開かれた教会をめざしてプロテスタントなどとの教会一致運動(エキュメニズム)、諸宗教との対話、福音の土着化を進めることを決定し、変革を各教会に促した。カトリック北一条教会は、「この公会議のねらいは、急速に変わる社会に教会も適合し、信仰の向上をはかろうということにあった」と概括した(神の愛、われらに満ちて)。以後、信徒の働きを「信徒使徒職」とよび、宣教活動に位置づける動きが進み、四十二年三月には、札幌地区の使徒職協議会を発足させ、翌四十三年、藤学園を会場に第一回札幌地区信徒使徒職大会を開催した。四十四年の大会テーマは、「現代社会に生きるカトリック者」であった。前々年四十二年からは新しい祈禱書と聖歌集が用いられ、これまでのラテン語で行ってきた典礼聖歌が日本語で歌われるようになった。また、教会一致祈禱週間には、カトリック・プロテスタント共催の講演と祈禱会が行われ、交流が本格化した。一方、プロテスタントの札幌キリスト教連合会の支援によって四十一年十一月にさっぽろ朝禱会が発足し、隔週の月曜日早朝に集まり祈禱会を開催することになったが、やがてこの交流はプロテスタント諸教派を越えてカトリック、正教会に及ぶようになった。
キリスト者の社会的発言では、昭和二十年代後半の原水爆実験への抗議、三十五年の安保条約改定反対運動などがあった。札幌では安保条約反対運動の後、三十七年に北海道キリスト者平和の会が結成された。平和の会は、三十八年から、島松演習場で自衛隊の演習を阻止しようとして国から訴えられた酪農家の裁判、恵庭事件の支援運動を起こし、この無罪判決後は、四十三年に起こった長沼ナイキ基地建設反対運動に取り組んだ。
平和の会は、キリスト者有志による活動であったが、札幌の教会が幅広く結集して取り組んだ運動には、四十一年から四十二年にかけて高まった、建国記念の日に反対する紀元節復活阻止運動がある。さらに四十三年からは、靖国神社法案に反対する運動が広がった。宗教法人である靖国神社を国家の管理に置こうとするこの法案は、四十四年から四十八年まで五度にわたって国会に提出され、そのつど廃案となった。札幌でもキリスト教界が主唱して、他宗教・労働組合・市民団体に反対運動を広げた。プロテスタント、カトリック、ハリストス正教会の連携がこの運動をとおしても深まった。