急激な人口増加によって札幌は住宅の不足、学校校舎の不足、道路・下水道の未整備などといった、人口増加に追いつかぬ都市・生活基盤の未整備が当初は常態化し、問題が山積している状況であった。
札幌市では人口の急増と住宅不足に対応して昭和四十二年の「札幌市建設五年計画」にて、四十六年まで一〇万戸の住宅不足と推定し、市でも下野幌第一団地(青葉町団地)、第二(副都心団地)、第三(もみじ台団地)で合計二〇三ヘクタールの住宅団地の造成、市営住宅約五一〇〇戸の建設をきめていた。大量の市営住宅建設は、四十五年の「札幌市長期総合計画」にも引き継がれ、この第一次五年計画(昭46~50年度)でも、五六八〇戸の建設計画がたてられていた。市営住宅は四十二年に六五六戸を建設して以降、四十四年に一一〇〇戸を超えてから四十八年の最高一四七七戸まで大量建設と住宅供給を続けられていた。この間、ふしこ、光星、青葉町、副都心、もみじ台、山口東などの大規模団地がつくられていった(札幌市住宅年報 昭51)。この時期、市営住宅も倍率が多くて希望者がなかなか入居できない状況であった。四十九年以降も八〇〇~九〇〇戸は建設され、平成三年に至りようやく建設戸数も減少をみるようになる。
校舎不足も深刻な問題で小学校の場合、四十一年~四十五年に二四校、四十六年~五十年に二五校が開校していた(札幌の教育 平15)。このように毎年平均、五校ずつ増えているにもかかわらず住宅地の拡大、児童の増加に施設が追いつかない状況となっていた。四十九年の報道でも、「市内の小・中学生は急成長、毎年約五パーセントの増加を続けているが、これに伴わないのが学校施設の拡充」、「新設、さらに増改築などの陳情、請願が相次いでいる」とされており(道新 昭49・11・6)、かつてのように二部授業は行われていなかったにせよ、至るところでプレハブ教室、すし詰め教室がみられていた。四十九年度は小・中学校の新設が九校で、四三校が増改築されていたものの、プレハブ教室は小学校一一三教室、中学校一五教室にも及んでいた(道新 昭49・3・27)。
五十年度の市予算も、教育費が約五四パーセントという伸びをみせ、一〇校が建設され五六校が増改築となって四〇〇教室分が整備されていた。こうしたハイペースな校舎建設が毎年繰り返され、小学校では五十一年~五十五年に三一校、五十六~六十一年に二一校が開設されていた。開設ラッシュがようやく止むのは、平成に入ってからである。
道路のうち、市道とその舗装率は四十七年の場合、総延長二一六五・六キロメートルのうち、舗装率二一・八パーセントに過ぎなかった。次から次へと伸びる道路に舗装が追いつかず、悪路と砂塵の埃で悩まされることが多かった。ところが、五十三年には三二五七・一キロメートルと市道が一〇〇〇キロメートルも大幅に延びているにもかかわらず、舗装率はすでに七九・一パーセントにあがっていた。この短期間のうちに、宅地造成、区画整理、市道整備などが集中してなされ市道の延長数が伸びていても、その一方では舗装工事も急ピッチで行われていたのである。ちなみに、舗装率が一〇〇パーセントとなるのは五十八年であった(総延長三九一三・九キロメートル、統計書)。
下水道も普及率は四十七年が排水区域七二・三パーセント、処理区五八パーセントであった。それが五十八年にはそれぞれ八八・一パーセント、八二・四パーセントと大幅に伸びていた。併行して水洗化も進められていく。
以上の例示したような急膨張にともなう、都市の基盤整備の拡充が終わるのが五十年代なかばであった。