郊外周辺部における大型店の出店やレジャー志向の変化は、都心部の地位を相対的に低下させた。昭和五十八年(一九八三)以降の人口増にもかかわらず、都心部の交通量は横ばい状態であり(道新 昭63・12・26)、また小売業全体に占める都心部の割合も、商店数はともかく従業員数、売場面積、年間販売額ともに次第に低下した。そのため都心部のデパートでは、隣接する店舗間、あるいは大通と駅前の競合とともに、都心部への顧客の回帰を目指し、郊外大型店の出店が一段落した五十九年ごろから平成にかけて、店舗のリニューアルや増床、営業時間延長、高級海外ブランドの出店、食料品売場の充実、信販や銀行系のカード会社と提携したクレジットカードの導入、友の会入会による優待制度などさまざまなサービスを展開した。特に増床に関しては、五十九年に五番舘と東急が相次いで新館建設、増床計画を発表し、その後二年かけて商店街の説得にあたったが認められず、審議が商調協にうつった六十一年八月、それまで静観していた丸井今井、そごう、三越の三店が増床計画を表明し、結局六十二年七月に最初の二店が、九月に後の三店の増床が認可され、後発の三店は巻き返しに成功するという結末となった(道新 昭62・8・23)。
また大通地区と札幌駅周辺では、従来大通のほうが優勢とみられてきたが、平成元年七月十四日「パセオ」がオープンし、翌二年にはより西武色を強めた五番舘が、全面改装と新館建設完成と同時に「五番舘西武」と改称し六月十三日開業すると、平日交通量もやや上向き、特に駅前を含む北側の通行量が増加した。これに対して大通側では、平成四年三越が丸善南一条店に新店舗「アネックス」をオープンさせ、翌五年ダイエー札幌店が閉店した後には、七年九月十四日若者むけの商業テナントビルpivotが誕生した。また六年一月にはヨークマツザカヤが閉店、二月からロビンソン札幌店として新装オープンした。駅前方面ではJR高架下に七年ヨドバシカメラ札幌店が出店し、また長期化していた札幌駅地下街の立ち退き問題がテナント七店との和解により解決し、八年八月ステーションデパートの解散が決定すると、札幌駅南口地下街の再開発計画も進行して、翌九年には大丸百貨店の出店が決定し、十一年十月にはステーションデパート、札幌駅名店街、エスタ二番街の跡に札幌駅地下街「アピア」がオープンした。また五番舘西武は平成九年八月二十六日総合百貨店からファッションと雑貨の大型複合専門店へ業態転換し、名称も「札幌西武」と改称してB館にロフトを開業すると、翌十年三月には東急ハンズが南一条西六丁目に開業するなど、大通と駅前の競合はより熾烈さを増し、十五年三月の大丸、ステラプレイスの開業は、これに加えて札幌と地方都市の顧客の奪い合いに発展する可能性もでてきた。
一方で平成不況による消費の低迷は都心部デパートにも大きな影響を与え、ディスカウント形態の「ビッグオフ札幌店」に生まれ変わっていた長崎屋が十二年二月十三日閉店し、同年七月十二日にはそごうが民事再生法を申請したため、同年十二月二十五日札幌そごうも閉店に追い込まれた。また丸井今井もバブル崩壊後も続けていた経営拡大路線が行きづまり、拓銀の破綻が引き金となって九年十二月十六日の取締役会で社長が解任され、その後私的流用が発覚し告訴問題にまで発展した。