ビューア該当ページ

天理教の教会数

1012 ~ 1014 / 1053ページ
 天理教(本部奈良県天理市)はこれまでも教会数が非常に多く、市内でも教勢のつよい教団であった。表8は市内における神道系教会数の推移を示したものである。これによると天理教の教会は、昭和四十七年で七九教会を数えていたが、これ以降も増加を続けていた。六十二年に一〇七教会という最高値を示しているが、六十年に一〇九教会に至っておりこれが最高であった。しかし、これをピークに微減に転じ始めていた。六十年代以降は新設教会が少なく、後継者の不在などによって閉所するところがみられるようになっていた。それでも教会数の多いことは道内の他地域よりぬきんでていた。道内には現在九六六教会があるので、その一割が札幌市内に所在することになる。札幌には大教会(夕張大教会―岩見沢市、雨龍大教会―深川市、網走大教会―網走市)は存在していないけれども、北海道教務支庁もあるように、道内の天理教の中心であったことは確かである。
表-8 神道系教会数の推移
教派名昭47昭52昭57昭62平4平9平14
天理教79899710710610297
金光教6666666
御嶽教6664444
神習教155555
石鎚本教333332
神道大教132
神道大和教222221
『札幌市統計書』各年版より作成。

 札幌市内に教会数が増加したのは、市の人口・世帯数の増加および信徒増加に伴う宗教状況による新設が、最も大きな原因であったといえる。けれども、仏教寺院にみられたように市外から市内への転入も要因となっていた。
 市内への転入教会をみると、古くは大正六年に長沼分教会(豊平区中の島二―五)が長沼町より移転していたが、昭和四十年代以降に多くなる。例えば、東苗穂分教会(東区中沼町)は四十二年に栗沢町の栗沢分教会が移転して改称したものであり(夕張への道 年譜・部内扁 平9)、羽幌分教会(厚別区厚別西五―四)は羽幌町より四十七年八月、美流渡(みると)分教会(清田区真栄四―一)は栗沢町より四十八年十月、空知分教会(厚別区大谷地東六)は砂川市より六十三年五月に、それぞれ札幌へ転入していた。炭鉱を抱えた地域が多く、閉山による信徒の減少、あるいは信徒の札幌への転住が移転の要因になっていたと思われる。近年も依然として転入が続いており、花北分教会(白石区平和通八)は平成二年にニセコ町(狩都分教会を改称)、雅登(まさと)分教会(清田区平岡四―三)は四年に岩内町(北岩分教会を改称)、美国町分教会(手稲区曙三―一)は十二年に積丹町、阿北分教会(白石区米里四―一)、近文分教会(東区北二三東九)は十三年にともに旭川市より移転していた。仏教寺院も札幌への転入が多く、それは「都市開教」の論理に包摂されていたが、天理教の教会転入も「都市開教」を志向していたものとみなすことができるであろう。
 その一方で、市内より市外へ転出する教会もあった。創成分教会が昭和五十四年に北広島市輪厚、六十一年に明恵(めいけい)分教会が大曲、平成三年に真岡(まおか)分教会が西の里へ移転し、上白石分教会が昭和六十一年に伊達市に移転し梅伊達分教会と改称するなど、市外への転出が市内教会数を減少する理由ともなっていた。