『地震後世俗語之種』を著した永井善左衛門幸一は、善光寺大勧進家老久保田家に生まれ、権堂村名主永井家の養子となって、20歳で名主に就任しました。権堂は水茶屋が軒を連ねる花街でしたが、永井家は酒屋を営んでいました。若いころは江戸に出ていたので、その時に絵を習ったのでしょう。善光寺地震のあった弘化4年(1847)当時、幸一は34歳で、妻イト(糸)29歳、娘ジュン(順)16歳、息子乾三9歳の4人家族でした。御開帳ということで善光寺の駒返橋の近くに梅笑堂という土産物の出店を出し、出入りの大工に店を任せていましたが、夕食後に家族そろって出店に出かけ、一人で本堂に参拝して本堂を出たところで大地震に遭いました。