浅井洌は長野県歌「信濃の国」の作詞者として有名ですが、信州教育を代表する教育者でした。嘉永2年(1849年)、松本藩士大岩昌言の三男として生まれ、12歳の時浅井家の養子となりました。
「明治2年藩校崇教館の句等掛となり、3年には東京の林鶴梁の門に入っている。また、国文・国史は家学で自修し、剣・槍・砲術の武芸の稽古は道場に通い、踏水術も修めた。」(前掲書)この間、長州征伐にも従軍したという。
明治5年筑摩県学出仕、翌年25歳のとき開智学校勤務。明治14年松本中学校教員。
明治12年頃、「自由民権運動が起きると、浅井は民権結社奨匡社創立に加わり、機関紙「月桂新誌」に投稿して大いに自由教育を主張し、教育施策を提言する」(前掲書)
明治19年38歳の時、師範学校が松本町から長野町に移転すると、長野県尋常師範学校出仕を命じられ、一家をあげて長野へ移住しました。師範学校では国語・漢文・歴史・習字等を担当。国文の浅井洌、漢文の高橋白山と並び称せられました。
長野師範学校地に建てられた頌徳碑には「先生の状懇、温潤玉の如し」「其人となりや快淡無欲、正醇弘毅」と評されています。
教師歴56年、小学校、中学校、そして長野県師範学校教諭を40年にわたり務め、90歳の長寿を保ち、昭和13年松本市の実家において永眠しました。
県歌「信濃の国」の作詞には、広く旅して、県下各地の歴史、地理、人物等に精通した国文学者浅井洌の「修学旅行概況」が投影していることは想像に難くない。