○安曇 池田

   3左  
 宮本神明は宮本村にあり、仁科66郷神明の惣社です。社領は、黒印23石、除地(じょち、租税を免除された土地)が5石です。社内は、東西4丁12間、内大門2丁49間、南北4丁20間です。
 本社祭神は、国常立尊・児屋根命・瓊々杵尊・太玉命。四柱相殿。末社は、一ノ宮・二ノ宮・武山大明神・上諏訪・下諏訪、以上は本社の右にあります。
 すのこ明神・三島・八幡・鹿島・春日・熊野、以上は本社の左に並び、右玉垣の内です。
 稲荷・伊豆権現・子安・白山・九頭竜・天満宮・南宮・疱瘡神、以上は二ノ鳥居内にあります。拝殿は、本社の前廻廊に続き、神楽は同じく前にあり、絵馬殿は同西にあり、御供所は同東にあります。三ノ鳥居、以上瑞籬内です。籠屋は下段の西にあり、二ノ烏居。
 本社から一ノ鳥居まで43間余、この間は敷石と大石垣で、石壇は3か所です。一ノ鳥居は、仁科街道の並に立ち、二ノ鳥居からここまで2丁49間、駒除があります。
境内に老杉172本(周りは7尋半より)、大檜160本、大槻(廻り11尋)、そのほか大樹が茂っています。
 神宝は、鵜ノ丸の太刀・鏡一面・霞ノ鞭、以上は宝永4亥年(1707)に調べたものです。
 例祭は、御戸開(正月11日)、祈念祭(2月9日)、御戸開(12月16日)です。そのほか、正月、5月、9月14日に国家安穏五穀豊饒の祈躊をします。
 神主は、一志検校・菅原茂興(代々黒印預)・小野左衛門・横沢権頭・志水右近 神子1人(若狭)、そのほか小祝(こほおり)12人、八乙女(やおとめ)8人、みんなこの村にいます。
 当社は、仁科66郷の惣社として、嘉承2巳年(嘉祥、848~851)に伊勢より勧請しました。一志検校(けんぎょう)の家は、そのときに勢州より供奉の家筋です。そのほか6か所は、麻績・苅谷沢・潮・仁熊・会田、上生坂で、以上7か所が同じときに勧請されました。 宮本村は、大昔から村中がみんな社家であり、今日に至るまで諸役免許となっています。慶安のころ(1648~1652)までは、1村で35軒でしたが、現在は100軒余となっています。いつの頃からか社家と百姓と別れたのでしょうか。いまも婦人の月次の障(げつじのさわり、月経)には、百姓でも別火する習わしが昔からの風俗としてあるといいます。
 


(注)仁科神明宮大町市大字社宮本)は、平安時代後期に伊勢神宮の内宮領となった仁科御厨の鎮護の社として伊勢から勧請された神社で、天照大神を祀ります。森厳な宮山を背に南面して社殿が建てられていて、参道と社殿の配置や社殿の形式、さらに20年ごとの式年造営の執行など、伊勢神宮内宮の祭祀にならっています。神事には、3月15日の作始め神事や9月15日の神楽奉納があります、古くからの形態を留めていて、その奉納は氏子が代々受け継いできており、ともに長野県無形民俗文化財に指定されています。
 現在の本殿等の建物がいつ造立されたものかはっきりしませんが、神明造の旧態を保持してきている建物であることは貴重で、わが国最古の神明造様式の建築として国宝に指定されています。
 仁科神明宮では古くから20年ごとの式年造営が厳格におこなわれてきていて、そのたびごとに、造営神事の執行年月日・奉仕者名・奉行名・工匠名・作料などを詳細に記した棟札が作られてきましたが、南北朝時代の永和2年(1376)から現代に至るまでの分の棟札がすべて保存されていて、そのうち江戸時代までの27枚が重要文化財となっています。棟札が単独で重要文化財指定となっていることは珍しいことです。
 
 
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 清音(きよと)の滝は、常光寺村横川氏の裏山にあります。吐口の険巌に仏像の形がありますが、苔むしていてはっきりとはみえません。滝の入観音と称して信濃21番の札所です。前の内大臣家の歌があって、板に写して滝の傍に建っています。本書は横川氏が所蔵しています。
 


(注)図では、清音(きよと)の滝に集まる旅人や、滝壷の近くで野点(のだて)を楽しむようすが描かれています。滝の吐き口(はきぐち)付近にみえる石仏は、「瀑布の入観音(たきのいりかんのん)」と呼ばれていました。
 大町の飲料水は、北アルプスの湧き水を「男清水(おとこしみず)」、居谷里(いやり)湿原よりの水を「女清水(おんなしみず)」と呼びます。