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5町ほど相対して宿場をなしています。麻績宿へ1里10町です。東方の山に青柳氏の城趾があります。城主は青柳近江守清長・同伊勢守頼長です。はじめは信濃衆の一味だったともいい、伊勢守の代に甲州武田家に属し、50騎の軍役でした。甲州が没落し、小笠原貞慶(さだよし)が帰城の後もなお小県(ちいさがた)郡の真田氏等に味方して、越後の上杉景勝に志を通じて、小笠原家ヘ一応の届もなく無礼であり、ことに怨敵の憤りがあれば、取り合いがはじまる、麻績・会田等一味なので、たやすく滅ぼしにくいので、小笠原方から和談の話があって、のちに松本へ招きました。二の郭あたりに兵士を伏せ置いて伊勢守を討ち取り、すぐに青柳へ人数を差し向けたので、防ぎようがなく落城して青柳は滅びました。
青柳のはずれに石山の切り通しが2か所あります。天正8庚辰年(1580)8月、青柳伊勢守藤原頼長の代に切り開いたといいます。その後、享保元丙申年(1716)に、松本藩主(水野日向守)が普請して、切下3尺、明和6己丑年(1769)、文化6己巳年(1809)など何回か普請があり、当時、大きい方の長さ15間、幅9尺、右の方に石像の観音百体を造立しました。珍誉坊主が発起したものです。小さい方の長さ2間1尺、高さ8尺、幅9尺とのことです。これによって、旅人も牛馬の往来はなにも心配なく通行できるようになりました。野を越え山を越えつつ、麻績宿に到ります。
(注)青柳宿は、青柳氏が戦国時代に館を中村から移して町を形成し、街道を館前方まで引上げました。慶長19年(1614)の記録では、家数が37軒、弘化3年(1846)は旅範屋11・茶屋7・馬士7・かご稼5軒、明治18年(1885)には、宿屋が問屋のほかに13軒ありました。
青柳城は、館の上方、標高900メートルの尾根に200メートルにわたって大小8つの郭(くるわ)と7条の空堀を置いて、西端が本郭で、東西に土居が、北側に石垣が残っています。本郭からは筑北の諸城が一望できます。天文22年(1553)に武田と上杉が、天正11~2年(1583、84)に小笠原と上杉が攻防戦をした城で、青柳氏は、天正15年に松本城へ呼ばれ小笠原貞慶に殺され、青柳城も落城しました。
青柳宿を出て、しばらく北へ向かうと、岩山を垂直に切り開いた大きな切り通しがあります。現れます。青柳切通しは、天正8年(1580)に青柳氏が切り開き、その後、享保元年(1716)・明和6年(1769)・文化6年(1809)の3回切り下げられて広げられました。東側の岩面に普請記録が刻まれています。この開削によって、旅人や牛馬の往来は、遠回りをせずに便利になりました。斜面には道中の安全を祈願した観音像等の石仏が安置されています。