○筑摩 麻績

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 6町ほど相対して宿場をなしています。そのほか何軒かが町裏に散在しています。稲荷山宿へ3里、その間に猿ケ馬場という峠があります。宿の入口の左側に仏眼山法善寺(曹洞派、寺領8石)の黒門の脇に庚申の祠反古塚などがあります。また、宿のなかほどの北裏の山手に麻績山光明寺(天台宗)という寺があります。これは、麻績式部太夫の城趾で、式部太輔は甲州へ属し、10騎の軍役でした。
 宿の出郷の宮本村に神明宮がたっています。白鳳12年酉(7世紀後半)2月9日の勧請です。豊受皇太神を祀っています。神領12石、神事正月朔日、2月9日、6月17日、8月14日。神主は、宮川雅楽亮(宮下帯刀・宮川豊後・宮下日向・寺沢近江・宮下織部)。
 この宿を出て18町いったところの一の川村、これが猿が馬場の登り口です。しばらく登った左側に、弘法袈裟掛松という1本の古松があり、麓に清泉が涌出ていて、蟹清水といいます。掛茶屋が1軒(一の川より出る)あり、傍に芭蕉の句碑あります。表に芭蕉、塚裏に さゝれ蟹足はい登る清水かな はせを とあります。
 嶺に水茶舗があります。また、右に夜が池、東西2町ばかり、南北4町半ほどです。水を湛えています。この巓は木もなく笹原で平山です。この池から5、6町下ると、小池の上に馬塚があります。これが筑摩郡と更科(さらしな)郡の境です。右に猿飛という大岩が2つ3つ見えます。18町下ると燧石に茶屋があり、名月屋寅蔵といいます。座敷の床に大岩を作り込んで壁の代わりに使っています。小石でこれを叩くとすぐに火が出ます。遠い昔、八幡宮の神燈と神供を調べると、この場所の石を使って火を改めた事なので、今日にいたるまでなりし故、燧石の名が残っているということです。
 


(注)麻績宿は、鎌倉時代に新補地頭として下総(しもうさ、いまの千葉県の北部・茨城県の一部)から来た麻績服部(はっとり)氏の城下町から発展した宿で、延喜の宮道の麻績駅(うまや)もこの地にありました。慶長19年(1614)の家数は57軒、安政2年(1855)頃には旅寵屋は29軒もありました。
 法善寺は曹洞宗で、遠江国(とおとうみのくに、静岡県西部)奥山善往寺の末寺です。古くは法相宗であったといい西谷寺と称しました。永正9年(1511)に賢甫和尚の中興開山、麻績服部左衛門の開基といいます。信濃三十三番の第1番札所でした。本堂は天保年間(1830~1844)の再建で、本尊は阿弥陀如来坐像です。
 麻績城の館跡は中町の裏にあります。古城虚空蔵山城は裏山の尾根にあり、主郭の東西に土居が残っていて、3郭よりなり2条の空堀や数個の帯曲輪があります。
 麻績城山は標高940メートルの山上にあり、3郭と数条の空堀、10あまりの帯曲輪があります。麻績氏は天文22年(1553)に武田氏に攻められて上杉氏」へ逃げ、のちにふたたび麻績へ入りましたが、小笠原氏に心を寄せたので、天正11年(1583)に上杉氏に攻め滅ぼされました。
 麻績神明社は宮本にあり、伊勢神宮内宮の麻績御厨の惣社として平安末期の創建です。貞享元年(1684)の神明造の本殿をはじめ、仮殿・舞台・神楽殿・拝殿の5棟は国の重要文化財です。江戸時代まで神宮寺もありました。社宝に、鎌倉から室町時代へかけての御正体10箇、室町時代の銅鏡があります。