○筑摩 青柳

   31左  
五丁程相対して巷を成す、麻績宿へ壱里十丁なり、卯の方の、山に青柳氏の城趾あり、城主青柳近江守清長・同伊勢守頼長
なり、始は信濃衆一味なりしかとも、伊勢守代に甲州の武田家に属し、
五十騎の軍役たり、甲州没落、小笠原貞慶帰城の後もなほ小県
郡の真田等と一味して、越後の景勝へ志を通るにや、小笠原家ヘ一応
の届もなく無礼の様子なり、殊に怨敵たりし憤りあれバ、取合始り
ける、麻績・会田等一味なれバ、輙く亡しがたきに依て、小笠原方より和
談ありて、後に松本へ招く、二の郭辺に兵士を伏せ置伊勢守を討取
り、即時に青柳へ人数を差向らるゝに依て、軍不意に発り、防き
 
   (改頁)
 
   33右  
 
戦ふ事能ハず、落城して青柳滅亡せり、
青柳を出放れて石山の切通二箇所あり、天正八庚辰年八月、
青柳伊勢守藤原頼長代に切開くといふ、其後享保元丙申年
に、松本侯[水野日向守]より普請あつて、切下三尺、明和六己丑年、文化六己
巳年等追々御普請有り、当時大の方長サ十五間巾九尺、右の方
に石像の観音百躰ヲ造立す、珍誉坊主発起せしとなり、小の方長
二間壱尺高サ八尺、巾九尺なりとぞ、是に依て旅人并に牛馬の往来
聊も煩ハしき事なく、野を越え山を越つゝ麻績宿に到る、