織田信長の築いた安土城は天正七年(一五七九)にほぼ完成している。この安土城は史上空前の規模を誇り、総石垣、壮大な天主(天守閣)、瓦葺きなど、その後の近世城郭の規範となった。これ以後の安土桃山時代に信長や秀吉の家臣であった大名たちにより、各地に建造された城を織豊系城郭と呼んでいる。

 天正十八年(一五九〇)、生え抜きの領主が関東へ去った後の信濃へ入ったのは秀吉の家臣たちであった。そして、これら新来の大名の手により、その居城の近世城郭への大改修が行われることになる。安土城に始まる織豊系城郭が、この時期に信濃などの東国にも出現することになった。高い石垣が築かれ、天守閣などの豪壮な城郭建築も建てられるようになる。松本城では五層の大天守が築造され、諏訪高島城でも三層ながら天守が建てられた。また、小諸城にも天守台の高い石垣が残り、かつては三層の天守があったと伝えられている。

 天正十三年には一応の完成をみた上田城も、かなり大規模な普請が行われた様子は前にも見た。しかし、この時点での上田城は石垣はなく、建物も簡素で中世的な実戦本意の城であったとみられる。信濃などの東国では、瓦の城郭への使用でさえ、それまで全く見られなかったのである。

 ところが、右のような情勢下で、周囲の諸大名の居城は面目を一新する。そのため真田昌幸もこれにならって、上田城の大改修に乗り出したと考えられる。その証拠として、上田城跡より出土している金箔瓦や菊花文様の軒丸瓦などの桃山期に特有な瓦が上げられる。また、これには、伏見城普請への参加の経験や、やはり秀吉の城であった大坂城、聚楽第などでの見聞も当然あずかっていたこととみられる。