[解説]

明治3年歎願書
上田歴史研究会 阿部勇

 明治新政府が発足してまもない明治2(1869)年、上田藩の全域におよぶ騒動が起きました。いわゆる上田騒動です。領内全域が混乱、騒動の影響は他領域にまで及びます。明治維新期に信州全域で起きたいくつかの騒動の中で代表的な、明治3年の松代騒動や中野騒動は、上田騒動を上まわる規模となり、世上の不安は絶えませんでした。上田騒動の原因は数多くあげられますが、その大きな一つに、信州全域および上田領内に流入した贋金にあります。したがってこの騒動を「チャラ金騒動」とも呼んでいます。いくつかの騒動が起きたことからもわかるように、新政府が樹立されてからも、明治初年の信州は、まだ混乱の中にありました。
 
 上田小県地域は江戸中期には「上田縞」などの絹織物が高名で、蚕糸業が盛んになっていました。安政6(1859)年の横浜開港当初から上田藩は積極的に生糸輸出をしました。しばらくして蚕種輸出が解禁されると、上田小県地地域は日本有数の蚕種輸出地となります。生糸はヨーロッパやアメリカへ、蚕種はヨーロッパへ輸出されました。明治初年の不安定な世の中にあっても、海外需要に支えられ、生糸蚕種の製造量はさらに増していました。
 
 明治2年の上田騒動があった次の年、丸山平八郎は上田藩庁へこの「歎願書」を提出しました。
 丸山家は代々平八郎を襲名しています。「歎願書」を提出したのは、11代平八郎直養です。天保年間、彼の先代から上田藩の御勝手方を勤めることとなり、上田藩の財政立て直しの助力をしていたようです。
 平八郎直養も藩の御勝手方となり、幕末維新期の混乱の中、上田藩のために貢献しています。その具体的な内容を「歎願書」から挙げてみましょう。
 ・上田藩内で製造された蚕種紙横浜で販売
 ・上田藩札の扱い―藩から拝借した5万両分配の斡旋
 ・領民の救済への助力―囲い米(越後米)・上納米
 
 藩が明治政府に報告した明治3年の記録によると、上田領内で製造した蚕種紙は、62万7千余枚にも上っています。しかしこの年、普仏戦争(プロイセンとフランスの争い)が勃発し、ヨーロッパへの輸出が不能状態になります。
 莫大な利益を上げていた上田の蚕種輸出が、ヨーロッパでの戦争によって大きな影響を受けたことを「歎願書」が教えてくれます。
 この書付は、上田領民の生活が、明治初年においてすでに世界史の動きと直結していたことがわかる史料としても重要です。
 横浜から丸山平八郎に届いた8月13日付の手紙には、「フランスとプロイセンが大会戦しているため蚕種の取引ができません。フランスの銀行は休業状態です。フランスが大敗し、帝王はイギリスへ逃げました。」などと記されています。戦争中は当然ですが、大切な輸出相手国であるフランスが大敗したので、日本の蚕種輸出がこれ以後も滞ることは予想されていました。
 
 「歎願書」からは幕末から明治にかけての上田小県地域と横浜における蚕種販売のシステムを知ることができます。
 ―各村の蚕種業者が製造した蚕種を、丸山平八郎のような資力を持った豪農商が買い集め横浜に出荷。横浜では「横浜売込商」と呼ばれる日本の大手商社から外国商社に売却。横浜売込商は売却代金から手数料を取り、丸山平八郎のような地方蚕種売買業者にその差額を支払う。各村の蚕種業者は蚕種原紙(卵台紙とも呼び、蚕種を産み付けさせる和紙)購入のほか製造に必要なお金(原資)を地方蚕種売買業者から前借して蚕種を製造。横浜へ出荷した蚕種が売却されてから前借したお金を返却。―
 このようなシステムですから、横浜蚕種が売れなくなると、各村の蚕種業者は丸山平八郎のような地方蚕種売買業者(地方売込商)に前借したお金を返却できないことになります。現在、上田領内はこのような状況に陥っていると「歎願書」に記されています。
 その上で―このようなときに上田藩内で流通している藩札を引き上げられると領民はますます困ります。今まで、わたし平八郎は領民救済のため、囲い米や米の上納をし、藩に協力してきました。このことも考慮して藩札の引き上げ期限を延ばしてください―と訴えています。
 なお、平八郎直養は安政6年の横浜開港当初から横浜へ大量の生糸を運んでいます。したがって、彼は明治3年までの10年余にわたって、上田藩の生糸蚕種輸出を支えていた重要な商人の一人であったことがわかります。
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