第十九銀行は、信用貸しの荷為替融資を大原則にしていたが、黒沢頭取は製糸業の発展に即した安定した信用度の高い事業の拡大をめざし、動産担保の繭購入資金(購繭資金)に融資するという製糸金融拡大策を採った。そのため担保となる繭の保管はもとより繭の質を落とさないことが必要になった。製糸金融拡大のために編み出されたのが担保繭の貯蔵施設と保管営業をする倉庫業であった。1873・明治26 年12月22日黒沢鷹次郎、飯島保作、阿部万五郎、辰野基、花岡茂十郎5人が上田倉庫株式会社設立目論見書を農商務大臣後藤象次郎に申請した。翌年の2月11日資本金3万円の上田倉庫株式会社が創立し、6月15日開業した。長野県における最初の倉庫業となった。
繭担保の貸出が急増したことと、いままで上田倉庫(株)に持ち込んでいた諏訪繭の入庫は、1906年6月の中央東線全通により諏訪地域に倉庫業の必要性が求められた。1909年1月22日創立総会を開き、諏訪郡平野村4782番地に諏訪倉庫株式会社(資本金20万円)を1月15日付で設立を決定し、6月9日営業を始めた。両社は、ともに第十九銀行の担保物件である繭の乾燥と保管を目的にしていること、役員も両社を兼ねていることなどから、創立の翌年1910年4月1日に合併し、新生諏訪倉庫株式会社(資本金25万円)として再出発した(史料2「倉庫及び乾繭業」と『諏訪倉庫七十五年史』に詳しい)。倉庫業は、製糸金融が産んだ新しい産業となる。