中南信全域に分県のムードを高めようと、分県派がまず最初にとりかかったのが、署名運動でした。分県論の急先鋒だった松尾千振(ちぶり)、小里(おり)頼永、森本省一郎らが、手分けして各地でおこなった分県運動の演説会で、参加者に呼びかけた署名運動は中南信140か町村におよび、その署名数は1万2000人でした。当時としては国会開設請願運動(明治13年)と並ぶ大がかりな署名運動でした。この署名数は当時の中南信10万6000戸の11%に当たります。
署名が一段落した明治22年8月30日から9月1日までの3日間、小里頼永、森本省一郎ら12人は、松本の南深志町青竜寺で分県請願準備委員会を開き、ここで小里頼永、森本省一郎、松尾千振の3人を分県請願委員に選びました。この3人は9月9日に松本で準備を整え、18日に有志による壮行の宴をうけ、20日に分県請願書を携えて上京しました。
3人を送るために20日に松本の神道分局に集まった者は5000人で、代表者が3人を送る主意を述べると、小里が請願者を代表して答辞を述べています。この間、21発の祝砲がこだましていました。それより一同は酒杯をあげ、「送分県請願委員之上京」と大書した十数流の旗幟を先頭にして出発、岡田神社まで行くと岡田、浅間方面の人びとがさらに合流し、ここで一同は最後の酒杯をもって3人を送りました。3人はここで人力車に乗って長野に向かい、21日には県庁で知事から請願書についての添書を得て上京しました。
分県請願書は22年9月26日に内務省に提出されました。いっぽう、小里・松尾・森本の3人が連署した元老院への分県建白書は、分県がけして不可能のことではないとして、他県の分県の例をあげています。
そして、長野県をあらたに二つに分ける理由として五つの理由をあげています。第の理由として、南北に長すぎることの弊害をあげ、第2に、県会議員の南北の意見対立が大きいことをあげています。第3として、県庁のある長野が北に寄りすぎているということをあげ、第4に、県庁に近い者は利益をうけ、遠い者は利益が少ないということをあげ、南北の地価の差が大きいということを第5にあげています。
分県後の南部77の規模は、山梨・鳥取・宮崎・青森などの諸県にくらべても少ないとはいえないとし、「長野県ヲ割テ特ニ松本ニ一県ヲ置カレン事」と言いきっています。
この建白にたいして、元老院は積極的で、提出された分県理由書や、県内統計書などをくわしく調べました。その結果、最後の元老院会議では46人の議官のうち、38人までが南信の分県主張に賛成し、反対したのはわずか8人だけでした。しかし、内務省が認可しなかったために、分県は実現しませんでした。
このあとも、県庁を移すという移庁運動、それがだめなら分県運動と、中南信の人びとを中心とする運動が続きます。
昭和20年以降の戦後になっても、移庁・分県運動が盛り上がっています。