[解説]

明治5年 議定書
上田歴史研究会 阿部勇

 一八六八年、成立直後の維新政府は「村々の地面は素より都(すべ)て百姓持の地たるべし」と表明しました。江戸時代、土地をめぐる関係は、大名の領有権と直接耕作農民占有権とが重なり、土地の売買は禁止されていました。しかし、自給的な農家経済が、商品流通の発達した経済社会になりつつある十八世紀以降、質地売買(土地を抵当に入れて借金。借金の返済ができない。抵当に入れた土地=質地の所有権は貸主に移る)という形で土地の売り買いが進行します。このことは、土地の処分権が農民に移りつつあったことを示し、農民の土地に対する権利が強くなったといえます。
 このような歴史の流れのなかで、農村の土地は、明治新政府がいう「都(すべ)て百姓持の地たるべし」となったのです。言いかえれば、明治維新期にはすでに新政府がこれを認めざるを得ない土地所有関係になっていた、ということにもなります。
 維新当初は、年貢を納めるという旧来と同じ土地税制でしたが、明治五年に「壬申地券」が交付されることになりました。これは新しい土地税制である「地租改正」のはじまりです。ここにあげた史料は、このときの壬申地券発行を知らせる文書です。
 壬申地券の発行は、明治五年(一八七二)二月の「地券渡方規制」にはじまります。この規則は「地券ハ地主タルノ確証」とあり、土地の売買、譲渡のたびに地券を発行することにしています。同六月にはここに掲載した史料である「議定書」が作成されます。同七月になると全国の土地所有者のすべてに地券が発行され、その所有権を保障する、という体制になりました。このとき発行された壬申地券を目にすることは多くないといわれています。
 全国の土地所有者すべてに地券を発行するという大蔵省の達(たっ)しは、全国各地でさまざまな憶測を呼びます。地券の発行は増税の手段であり、次には増税のための総検地が待っているのではないか(秋田県・新潟・茨城県・栃木県・埼玉県・大分県など)、地券に記載された地価額が増税額になるのではないか(長野県)、などです。さらに、秋田県などでは記載地価額で国に土地を買い上げられるのではないか、新潟県ではこれまでの年貢の上に地価に応じた地租が徴収されるのではないか、という憶測まで生まれています。
 このような状況のなか、明治六年に「地租改正法」が公布されます。この法に基づいて発行された地券は「壬申地券」と区別するために「改正地券」と呼ばれました。この改正地券は、全国各地に残っていて、旧家などで見ることができます。
 いわゆる「地租改正」は、土地所有者を確定してその所有者に地券を交付し、全国統一的に決定された地価に応じた地租を徴収することがそのねらいでした。