寂の姿

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          萩 野 蘆 江
 しのびやかに来た秋、そっと来た秋がもうたけなはになった。
 愈々(いよいよ)高く益々深く紺碧(こんぺき)に冴へる大空の広々さにも、中空に浮動する白雲にも、風の接吻に打ち顫(ふる)ふポプラの梢にも、いち早く凋落(ちょうらく:おとろえ)を見せた梧葉(アオギリ)の一片にも、友に離れた孤雁(こがん)の悲しげなるにも、夜毎の草叢(くさむら)に細り行く虫のにも、秋来てふ思ひの露はに感ぜらるゝ様になった。
 満目(まんもく:見渡すかぎり)蕭条(しょうじょう:ものさびしい)の秋!秋そのものは寂の一語に表現しつくされて居る。
 総てに寂より離れて解し得られない秋の殊に寂しきは雨である。バラバラと板屋根打って去る時雨(しぐれ:秋から冬にかけて降る小雨)はまだしも、シトシトと夜にかけて五月雨(さみだれ)を偲(しの)ばせる雨こそ寂しさ心細さの限りである。更(ふけ)くるに従ひ余りに明瞭に朶(じだ:みみたぶ、みみ)打つ雨の語らひを、たゞ一人ポツネンと聴く深夜の寂、蕉翁が
  野分(のわき)して盥(たらい)に雨を聞く夜哉(かな)
 草庵の夜更けに彼が嘆じた寂味と、この夜この時吾が胸に響く雨と、どこにいか程の差が見出し得やうか?
 硝子(ガラス)を隔てゝ覗(うかが)へば天地一黒の闇にクッキリ浮び出る吾が顏…寂しさは過ぎて物凄(ものすご)き感がする。
  
 秋の自然は寂そのものゝ姿である。落魄(らくはく:おちぶれること)の旅路さすらふ人の児の哀思をそゝるやまた切なるものがあらう。