(三)勝興寺の中世文書

 本書では、天正九年(一五八一)佐々成政の越中入部以前を中世とする。富山県指定文化財分(一八〇点、分類記号〇〇〇)のうち、一~一九の十九点が中世文書に該当する。このうち三・四・一〇の写を、分類記号二二二坊官の一・二に収める。近世において同寺が越中の末寺・坊主を統轄するために写されたとみられる。また本願寺文書四点の写も、分類記号二二五寺法/本願寺一般にある。親鸞・覚信尼・覚如・蓮如の譲状・置文(二二五-一~四)で、本願寺一家であったことによってこれらの写を入手できたのである。
 中世文書の正文として最も古いものは、〇〇〇-一の五月十二日付光闡坊(蓮誓)充蓮如書状(図版①)である。当寺の事実上の開基である蓮誓に充てた蓮如書状であるために重宝として扱われ、掛軸装となっている。〇〇〇-二~七は本願寺内衆下間氏が発給した文書で、内容・花押・筆蹟等によって存疑・偽文書とされている。岫順史編『雲龍山勝興寺古文書集』では、そのため写真が掲載されておらず、解説(新田二郎「勝興寺文書について」)でも偽文書とする。『富山県史』通史編Ⅱ(中世)においても〇〇〇-二~六・八・一〇を偽文書とし、十七世紀中期に瑞泉寺との争いの過程で作成されたと推定、ただし下間心勝(光頼)書状(〇〇〇-七)を正文とみている(八二一~八二四貢、金龍静氏執筆)。これに私見を加えると、〇〇〇-一~一〇については、正文が一・七・九、偽文書が〇〇〇-二~六・八・一〇ということになろう。一を除き十六世紀前半の勝興寺の動きを示す文書は、十一月二十八日付下間心勝書状が唯一ということになる。
 永禄(一五五八~七〇)末年から天正八年(一五八〇)までの〇〇〇-九・一一~一九の十点は、いずれも正文である。本願寺が上杉謙信や織田信長と対立するなかで発給された文章を中心とする。特に八月三日付下間証念書状(〇〇〇-九)を除く、(永禄十一年)七月十六日付武田信玄書状(〇〇〇-一一)、(元亀三年)十月朔日付武田信玄・勝頼連署書状(〇〇〇-一二)、一三-(元亀四年)二月二十六日付浅井長政書状、(天正八年)卯月十五日付顕如書状(〇〇〇-一七)、(天正八年)卯月十五付顕如書状(〇〇〇-一八)、(天正八年)五月十五日付教如書状(〇〇〇-一九)については、重要文化財勝興寺本堂落慶記念『勝興寺宝物展』の概説に詳しい(鴨川達夫氏執筆)。
 本願寺一家としての立場を示すものに、顕栄の子息顕幸(佐廉)が権律師に任じられた天正三年三月二十三日付正親町天皇口宣案、実玄の室妙勝(光応寺蓮淳女)往生志を謝す(天正三年)三月二十五日付顕如消息、証如二十五回忌志を謝す(天正六年)二月二十五日付顕如消息の三点(〇〇〇-一四~一六)がある。
 信長との石山合戦での大坂退去・籠城については、(天正八年)卯月十五日付顕如書状、(天正八年)卯月十五日付顕如消息、(天正八年)五月十五日付教如消息の三点(〇〇〇-一七~一九)で、越中の坊主・門徒を主導する地位あったことを確認できる。
 また金沢市立玉川図書館近世史料館加越能文庫所蔵「松雲公採集遺編類纂百卅二(古文書部三十四)」所収越中国古国府勝興寺文書及び「越中古文書」八から、現存しない中世文書五点を掲げておく。
ア)        二月 五日細川晴元書状 越・県史一五三四)
イ) (元亀三年)  七月十二日武田信玄書状 松・県史一七六五)
ウ) (天正四年)  極月十九日上杉謙信書状 松・県史一八六五)
エ) (天正五・六年)二月 朔日上杉謙信書状 松)
オ) (天正八年)  六月 九日本願寺教如書状越・県史一九六三)

(木越 祐馨)