『瑩山禅師行状図』を紐解く
『弘德圓明國師常濟大師行状圖』(『常濟大師行状圖』)
二幅一双 法量 本紙:縦-130.4cm 横-61.9cm
太祖瑩山紹瑾禅師の御生涯の事蹟を、絵とことばによって語り伝えるもので、大本山總持寺に所蔵される三種の「御絵傳」のうちの一つにあたる。
釈尊の仏伝(釈迦八相)の浮彫に遡る祖師伝は、わが国において平安時代に制作された『聖徳太子絵傳』を嚆矢に、中世には諸宗の祖師の一代を描く絵伝(伝絵、縁起絵、行状図・行業などと称する)が多く制作された。曹洞宗においては、江戸時代、文政五年(1822)に開祖道元禅師の御正当を前に『道元禪師御繪伝』四幅の掛幅が制作されている。
この『常濟大師行状圖』は、第一幅に「大日本曹洞宗太祖總持寺開山」、第二幅に「弘德圓明國師常濟大師行状圖」という題号が掲げられる。第一幅は第一「大師眞影」から第二十七「正安三年大乗寺法要」、第二幅は第二十八「正安三年授戒説法」から第五十四「諸嶽山總持寺傳燈院」までの全五十四段に詞書を付して絵が刻され、二幅ともに上方右手より下方左手へと解きすすむ。第二幅の末尾に、制作にあたった「松下尚悦謹画」「市川鎌次郎謹刻」の識語が認められる。本図は彩色が施されるが、同版の無彩色図も存する。
明治二十一年(1888)、鴻盟社から印刻された能本山版『太祖國師行状圖』二双(当代貫首畔上楳仙禅師撰上、全四十四段、彩色図)を先例に、明治四十二年(1909)明治天皇より賜った「常濟」の諡号を第二幅に冠し、削除六段、増補十六段により、五十四段へ増補改変された。諡号宣下慶讃法会の御親修を機縁に、大正十三年(1924)太祖六百回の御正当にかけて制作されたか。大正十二年(1923)に関東大震災による被災で見送り、翌十四年(1925)に執り行われた大遠諱法会の会場に掲げられ、披露されたものかと想定される。
上記二種の行状図の制作の間には、高祖大師の行状図(先刻)と一対を成す縮図版『太祖國師行状圖』一幅や、同じく松下画工・市川彫工の両名が携わった明治二十六年(1893)出版の『太祖圓明國師行實圖會』(寳山梵成編輯)というもう一つの絵伝があり、また能登總持寺祖院大祖堂の欄間に「開祖瑩山禅師一代記」と称する高山富重作の彫刻もある。
絵解きにより、行状の由縁が一つ一つ説き示されることで、祖師の御生涯に対するより身近な享受が促される。それは広く檀信徒を崇敬へと導く、「語り継がれる祖師の歴史」といえる。
(文:小島裕子)
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『瑩山禅師行状図』各場面について(全五十四図)
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第一大師眞影
曹洞宗の太祖・瑩山禅師の肖像画。袈裟をかけ、右手に払子を持ち、法被をかけた禅椅に結跏趺坐をして坐す瑩山禅師が画かれる。画面下部の沓床には靴が置かれる。禅宗の肖像画である頂相でよく用いられる構図を踏襲している。なお、總持寺に所蔵される瑩山禅師の頂相「絹本著色紹瑾和尚像」(南北朝時代作)は、曹洞宗の祖師を描いた肖像画のなかで、唯一、重要文化財指定を受けている。
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第二大師の慈父悲母蕣花の日光に萎るゝを見て世の無常を感ぜらる
瑩山禅師の慈父と悲母が、日が高くなるにつれてムクゲ(蕣花)の花が萎んでゆくさまを見て、この世の無常を観じる場面。瑩山禅師の父親は了閑上座(生没年不詳)、母親は懐観大姉(1228~1314)と伝えられる。これらは法名であり、俗名は不明である。ムクゲは朝に咲き、夕方には萎んでしまう一日花。
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第三師の悲母祖先の墳墓に詣して嗣子なきを歎かせらる
懐観大姉が墓参りをし、子のいないことを嘆く場面。懐観大姉は37歳の時に第一子(後の瑩山禅師)を授かった。
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第四大師の悲母その香華院に詣して禮佛問法せらる
懐観大姉が香華院を訪れ、仏に礼拝し、寺僧に仏教にまつわる質問を行う場面。香華院は、祖先の墓碑を設け、香華を供養する寺院を指す。
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第五大師の悲母多稱の観音大士を拜して一子を授けられんことを祈願せらる
懐観大姉が多禰の観音菩薩に子授けの祈願を行う場面。詞書では、「多稱」と作るが、『洞谷記』(瑩山禅師の日記・メモ)では「多禰」とあるため、「稱」は「禰」の誤字(第10図も同じ)。
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第六大師の悲母一夜日輪を呑むと夢見て懐胎せらる
画面中央の懐観大姉は、朝日を飲み込む吉兆夢を感得し、瑩山禅師を懐妊した。懐観大師は自身の念持仏である十一面観音菩薩に対して、出産が安産となり、生まれてくる子が聖人となるように祈誓を立てた。それより、惓むことなく十一面観音への礼拝と『観音経』の読誦を続けた。こうした生活を七ヶ月間続け、越前国の「多禰観音」の敷地にて、懐観大姉は無事に子を出産した。生まれた子は「行生」(後の瑩山禅師)と名付けられた。
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第七文永五年十月八日朝曒の昇る時大師誕生したまふ
文永5年(1268)10月8日、瑩山禅師誕生の場面。懐観大姉は産処へ向かう道中で産気づき、多禰観音の敷地で瑩山禅師を出産した。産処へ行く途中で生まれたことから、幼名は「行生」と名付けられた。生誕地については、坂井市丸岡町と越前市帆山町の2説が存する。また、本図は江戸時代以降、近年に至るまで広く流布した文永5年(1268)生誕説を採るが、現在は文永5年説の誤りが確認され、文永元年(1264)生誕説が通説として採用されている。また、10月8日が誕生日とされるが、この説は『總持開山太祖略伝』(鴻盟社、1879年刊)に初めて主張された説で、典拠は明らかではない。現在の曹洞宗教団においては、陰暦の文永5年10月8日を陽暦に換算した11月21日を太祖降誕会と定めている。ただし、この陽暦換算には誤りがあり、正しく換算すると11月20日となる。また、文永元年10月8日を陽暦換算した場合は、11月5日となる。
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第八文永七年大師三歳襁褓の中にありて合掌し南無佛と唱へたまふ
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第九大師平生の遊戯に石を積みて佛像及び寶塔に擬し合掌礼拜したまふ
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第十文永十年大師悲母に隨て多稱の觀音大士を禮拜し出家の志を起こしたまふ
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第十一文永十一年大師七歳師教を待たずして經史の大意に通暁したまふ
文永11年(1274)、7歳になった瑩山禅師は、誰の教えを受けることもなく、経史(儒教の経典と歴史書)の要点を理解した。画面では、経史を読む幼い瑩山禅師を、懐観大姉と了閑上座が見守っている。この出来事も、江戸時代以前の伝記では触れられない(第8図参照)。
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第十二建治元年大師八歳出家の志を遂げ慈父に隨て永平寺に登りたまふ
建治元年(1275)、瑩山禅師が了閑上座に伴われ、永平寺へ上山する場面。瑩山禅師は、「山僧遺跡寺寺置文」(『洞谷記』所収)において、祖母に養育されたと述懐しているが、瑩山禅師の祖母・明智優婆夷(生没年不詳)は、南宋への留学を終えて帰国し、京の建仁寺に寓居していた道元禅師と縁を結び、その俗弟子となった人であった。出家する寺院として道元禅師が開創した永平寺を選択したのは、祖母の勧奨あってのことと推察される。
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第十三建治元年四月八日大師奘祖に就て剃髪し沙彌と為りたまふ
瑩山禅師は幼くして永平寺へ上山し、懐奘禅師(1198~1280)・義介禅師(1219~1309)・義演禅師(?~1314?)といった、道元禅師の謦咳に接した人々より親しく指導を受けた。詞書によれば、中央に画かれた有髪の子どもが瑩山禅師、法被を掛けた禅椅に坐し、瑩山禅師に剃刀を当てているのが懐奘禅師となる。永平寺において出家した瑩山禅師は、終生、曹洞宗道元下の立場を貫徹するが、鎌倉時代は仏教他派で出家をした後に、禅宗へ転向する事例が圧倒的であり、この点からも瑩山禅師は注目される。
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第十四弘安三年大師十三歳奘祖に就て大戒を受け僧と為りたまふ
弘安3年(1280)、沙弥としての見習い期間が終了し、瑩山禅師は永平寺第2代住持をつとめた懐奘禅師より、菩薩戒(大戒)を受け、僧侶となった。受戒することを得度という。第13図と同じく、画面奥で侍者を伴い禅椅に腰掛けているのが懐奘禅師で、画面手前で懐奘禅師を礼拝しているのが瑩山禅師である。また、懐奘禅師は弘安3年に示寂するため、この得度式は懐奘禅師の示寂直前に行われたものであったと考えられる。示寂を目前に控えた高僧の弟子となった人を末後小師と呼ぶ。
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第十五弘安三年大師奘祖の遺命に依り介祖を拜して弟子の禮を執りたまふ
第14図と同じく弘安3年(1280)、懐奘禅師が示寂した後、瑩山禅師は永平寺第3代住持をつとめた義介禅師を新たな師として修行に励むこととなった。画面手前の瑩山禅師は、師弟の礼を執るべく座具を展べて礼拝しようとしている。画面奥では、義介禅師が払子を手に持って立ち、瑩山禅師の礼拝を受けんとしている。
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第十六弘安八年大師十八歳介祖に請ふて遊方行脚したまふ
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第十七大師比叡山に登りて天台の法門を扣究し旁ら大藏経を閲覧したまふ
比叡山にて座学に励む瑩山禅師が画かれる。ただし、瑩山禅師が比叡山で学んだという記録は、江戸時代以前の文献に徴証することはできない。これも『總持開山太祖略伝』(第7図参照)に至って新たに付加された事跡である。天台の法門とは天台教学を指し、大蔵経は一切経ともいい、仏教経典のフルセットを指す。唐代に編まれた『開元釈教録』によれば、大蔵経の総数は5048巻におよぶ。
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第十八弘安九年大師十九歳紀州興國寺法燈國師に就て参禪したまふ
弘安9年(1286)、臨済宗法灯派の興国寺で面壁坐禅をする瑩山禅師が画かれる(鎌倉時代は臨済宗も面壁坐禅をしていた)。遍参の途上、法灯国師(無本覚心、1207~1298)に参じたという説は、嶺南秀恕『日本洞上聯灯録』(1742年刊)に見出されるものである。『日本洞上聯灯録』によれば、瑩山禅師は法灯国師のほかに、白雲慧暁(1223~1298)や東山湛照(1231~1291)にも参じたとする。
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第十九正應元年大師二十一歳永平寺に歸りて介祖を覲省したまふ
弘安8年(1285)から正応元年(1288)に至る、足かけ4年の諸方行脚を終えた瑩山禅師は永平寺に戻り、義介禅師との再会を果たした。帰山直後に義介禅師を訪ねたのであろう。縁側には行脚に用いていた行李・網代傘・拄杖が置かれている。覲省は帰省してご機嫌をうかがい、安否を尋ねること。
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第二十永仁二年十月介祖上堂の因み大師大悟あり翌年正月入室傳法したまふ
永仁2年(1294)、瑩山禅師は義介禅師が上堂で取り上げた趙州従諗(唐代の禅僧)の「平常心の話」によって大悟徹底の境地に至った。瑩山禅師が、このときの大悟の境地を述べた「黒漆の崑崙、夜裏に走る」と「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」は有名である。ここに述べた悟りの機縁は、江戸時代以降の伝記において語られるようになる。本図では幕で区切られた室内において、禅椅に坐した義介禅師が瑩山禅師に何かを授与している。詞書を考慮すれば、伝法(嗣法)が行われているところであろう。授与しているものは嗣書(伝法の証明品)であると考えられる。
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第廿一永仁三年阿波の國海部の郡司某の請に赴き城満寺を創建したまふ
永仁3年(1295)、瑩山禅師は阿波国海部の城満寺(城万寺とも、徳島県海部郡)に住職として拝請された。義介禅師が初代住職をつとめた大乗寺(現石川県金沢市)の開基家である、富樫氏の一族が阿波国に居住していたことが拝請のきっかけになったと考えられる。 城満寺は四国最古の禅宗寺院としても知られる。ただし、瑩山禅師が城満寺において、どのような活動を行っていたのかについては、授戒会(第23図参照)を除いてほとんどが不明であり、今後の解明が待たれる。
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第廿二永仁五年大師城満寺にて始めて二祖峩山禪師の入室参禪を許したまふ
永仁5年(1297)、瑩山禅師は城満寺において、總持寺第2代住職・峨山韶碩禅師(1276~1366)の入室参禅を許可した。ここでの入室参禅とは、瑩山禅師の門下に入門し修行に入ることを指す。この詞書にしたがえば、瑩山禅師と峨山禅師が初めて相見した地は城満寺となるが、これは本図にのみ見られる説である。江戸時代以前に成立した伝記資料によるならば、瑩山禅師と峨山禅師が初相見を果たした地は、京都の東宮もしくは加賀の大乗寺とされる。峨山禅師はもともと比叡山の僧侶であったが、瑩山禅師の教えに触れたことで、曹洞宗に転身した。
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第廿三永仁六年大師城満寺にて七十五人に戒法を授けたまふ
永仁6年(1298)、瑩山禅師は永平寺の第4代住職・義演禅師(?~1314?)より仏祖正伝菩薩戒を伝授する作法(戒法)を許可され、授戒会を執行することができるようになった。城満寺において初めて挙行した授戒会では、鉄鏡眼可(?~1321)をはじめ75名に菩薩戒を授けた。本図はこの授戒会を図像化したものである。瑩山禅師はこれ以降も、積極的な授戒活動を続け、御親筆の『三木一草文』によれば、元亨年間までに戒を授けた僧俗(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)は700名以上に及ぶ。
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第廿四正安元年大師加賀の大乘寺にて介祖に代わり四衆の為に説法したまふ
正安元年(1299)、大乗寺において、瑩山禅師は住職の義介禅師に代わって説法を行った。住職に代わって弟子が説法を行うことを立僧または秉払というが、この儀礼は、説法を行う弟子が住職の後継者であることを披露する意味合いも帯びている。したがって、この日の説法により、瑩山禅師こそが義介禅師の後継者であることが明らかにされたのである。四衆とは僧侶(比丘・比丘尼)と在家信者(優婆塞・優婆夷)の総称。如意を持ち、禅椅に坐っているのが瑩山禅師で、瑩山禅師の近くで説法を聴聞しているのが比丘、画面手前にいるのが比丘尼・優婆塞・優婆夷である。
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第廿五正安二年正月大師大乘寺にて始めて傳光録を開示したまふ
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第廿六明峰禪師大乘寺にて大師に参見せられ大師禪師をして侍司に居らしめたまふ
明峰素哲禅師(1277~1350)は、比叡山での修学を経て建仁寺で臨済禅を学び、大乗寺の瑩山禅師に入門した。入門以来8年間、瑩山禅師の侍者(住職の給仕・補佐役)をつとめたことから、親しみをこめて「哲侍者」と呼ばれる。「侍司」は侍者の居住する侍者寮。明峰禅師は侍者をつとめながら修行に励み、その境地を認められた。晩年、瑩山禅師は明峰禅師を門下の僧禄に指名し、教団の後事を託した(第49図参照)。
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第廿七正安三年大師大乘寺にて富樫家尚の為めに法要を示したまふ
正安3年(1301)、瑩山禅師が富樫家尚(?~1329)に対して法要(仏法の要旨)を説く場面。富樫家尚は大乗寺の開基。家尚と澄海阿闍梨(生没年不詳)が義介禅師を拝請し、大乗寺が開創された。家尚の嫡男である家方(生没年不詳)は、後に瑩山禅師が永光寺の法堂(本堂)を建立する際の施主となっていることから、富樫氏は瑩山禅師が大乗寺の住職を辞した後も支援を続けたことが知られる。
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第廿八正安三年の夏滋野信直の請に赴きその邸に於て授戒説法したまふ
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第廿九正安三年十二月二祖峩山禪師大悟あり大師印可證明したまふ
正安3年(1301)、峨山禅師が大悟した場面。峨山禅師は瑩山禅師から与えられた「両箇月話」を日夜参究し、正安3年12月23日の夜半、瑩山禅師の弾指(指を弾いて音を出すこと)を契機として大悟した(『總持第二世峨山和尚行状』)。本図はこの機縁を素材としてが画かれていると考えられるため、立っているのが弾指する瑩山禅師、坐禅を組んでいるのが峨山禅師であろう。峨山禅師の大悟は夜半であったため、画面には月も画かれる。
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第三十延慶三年九月大師介祖の一周忌に對眞上堂を修したまふ時に天蕐乱墜の瑞あり
延慶3年(1310)9月、延慶2年9月14日に示寂した義介禅師の一周忌を修行する場面。対真上堂とは、祖師の肖像画に相対して行う説法。「対真」の「真」は絵姿、肖像画の意。本来、上堂は須弥壇の上から説法を行うが、ここでは、須弥壇上(画面右上)に義介禅師の肖像画が掛けられているため、瑩山禅師は義介禅師の肖像画に相対する法堂南面の台座(画面左下)にのぼり、義介禅師の小師と思われる小僧を連れて説法を行っている。瑩山禅師のすぐれた説法に天が感応し、妙華を雨ふらす瑞祥が起こっている。なお、天華乱墜については『總持開山太祖略伝』(第7図参照)に見られる説であり、江戸時代以前の文献では触れられない。
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第三十一應長元年大師可鐵鏡西堂の請を容れて加州に法苑山浄住寺を開闢したまふ
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第三十二正和元年の春大師滋野信直夫妻の請に應して能洲酒井の山荘に入り庵居したまふ
正和元年(1312)、瑩山禅師が酒井保の地を訪れた場面。瑩山禅師は滋野信直夫妻から酒井保の土地を寄進したいとの申し出を受け、両者の清浄な志に感銘を受け、申し出を受諾した。酒井保の地へ視察に訪れた日の夜、瑞夢(縁起の良い夢)を感得し、この地に永光寺を開創することを決意したのであった。
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第三十三正和二年の秋酒井の庵地に永光寺を創建したまふ時に異僧應現して土木を助く
正和2年(1313)、永光寺の伽藍を造営する場面。この時、異僧が出現して土木工事の手助けをしたとされるが、この異僧とは「伐闍羅弗多羅尊者」(十六羅漢のひとり)を指す。瑩山禅師の自伝(『洞谷記』所収)では、伐闍羅弗多羅尊者が夢に示現し、酒井保の土地は仏道修行の勝地であることを告げたという素朴な記述にとどまっている、近世後期の『日本洞上聯灯録』(第18図参照)に至ると、伐闍羅弗多羅尊者が労役の手助けをしたと述べられるようになる。
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第三十四正和三年大師能州羽咋の郡司得田某の請に應じて光孝寺を開創したまふ
正和3年(1314)、瑩山禅師が光孝寺の開堂に訪れた場面。瑩山禅師は光孝寺を能登で最初の独住所と位置づけている(『洞谷記』「山僧遺跡寺寺置文」)。ただ、光孝寺は中世のあいだに退転してしまったようで、その後の寺運は杳として知れない。得田氏の招請によって光孝寺が開かれたとする説は『總持開山太祖略伝』(第7図参照)に始まるものである。得田氏は酒井保の地頭職をつとめていた酒井氏の親族と推定されている(日本歴史地名大系『石川県の地名』「酒井村」項)。
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第三十五孤峯覺明和尚永光寺にて大師に参見隨侍すること三年大師懇ろに接化したまふ
孤峰覚明(臨済宗法灯派、1271~1361)が瑩山禅師に参随する場面。孤峰は元での求法を終えて帰国した直後、永光寺に上山し、瑩山禅師のもとでの修行生活を開始した。孤峰は瑩山禅師から正中2年(1325)7月28日に嗣法しており、四門人六兄弟(瑩山禅師の主要な弟子)の一角にも名を連ねている。最終的に孤峰は臨済宗の禅僧として活動することを選択するが、瑩山禅師の示寂後には、後村上天皇から仏慈禅師号を瑩山禅師へ勅諡(第54図参照)が行われるよう奔走しており、曹洞宗と良好な関係を築いていたことが知られる。
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第三十六元應元年大師滋野信直夫人平民の剃度を許して黙譜祖忍と名けたまふ
本図では、元応元年(1319)に滋野信直の妻である平氏女が瑩山禅師を戒師として出家し、祖忍尼と安名された場面が画かれる。祖忍尼は永光寺の寺領を瑩山禅師へ寄進した人物であり、永光寺にとって最大の功労者である。瑩山禅師は祖忍尼を永光寺の「本主」と位置づけている。瑩山禅師は祖忍尼とその一族から支援を受けつつ永光寺の寺基確立に努め、在世中に多くの伽藍を整備した。瑩山禅師の門下には、祖忍尼をはじめとして多くの尼僧が確認されるが、これは悲母・懐観大姉から受けた「女人を救済せよ」という遺嘱を実行に移したものと理解される。
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第三十七元亨元年四月十八日の夜能州諸嶽寺の定賢律師定中に観音大士の靈告を感ぜらる
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第三十八元亨元年四月十八日大師永光寺の室にて古寺に入門法語の瑞夢を感じたまふ
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第三十九元亨元年の夏定賢律師永光寺に赴くの途中大師に遇ひ直ちに諸嶽寺へ迎へらる
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第四十元亨元年六月八日大師諸嶽寺を總持寺と改め開堂演法したまふ
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第四十一定賢律師四至分限の寺領寄附状を大師に捧げて今の道下の宝泉寺に退かる
定賢律師が寺領の寄進状を瑩山禅師へ発給し、宝泉寺へ退去する場面。定賢律師から発給された寄進状は元亨元年7月22日付「権律師定賢定書」(「諸嶽寺観音堂寺領敷地寄進状」とも、總持寺所蔵)として現存する。宝泉寺は輪島市門前町道下の寺院で、現在は能登三十三観音霊場、北陸三十六不動霊場として知られる。
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第四十二元亨元年八月 皇帝陛下覺明和尚を勅使として十種の疑問を垂れたまふ
元亨元年(1321)8月、後醍醐天皇が孤峰覚明(第35図参照)を使者として、瑩山禅師に十種の疑問を問わしめた場面。この事跡は「十種勅問」の名で知られている。画面奥の右が瑩山禅師、左が孤峰覚明。瑩山禅師の前に置かれた文台の上の筥には勅問が入っているのであろう。歴史的に見るならば、孤峰覚明が後醍醐天皇と初めて出会ったのは元弘3年(1333)のことであるため、元亨元年に孤峰が後醍醐天皇の使者となることは不可能である。また、後醍醐天皇からの勅問に奏対したことで、天皇の帰依を受けたのは、孤峰その人である(『孤峰和尚行状』)。ここからすれば、「十種勅問」とは、孤峰と後醍醐天皇との関係を、瑩山禅師と後醍醐天皇との関係にすり替えて創作された伝承と見るべきである。十種勅問をはじめとする後醍醐天皇に関連する伝承が成立するのは、後村上天皇から瑩山禅師に対して仏慈禅師の諡号(第35図参照)が勅賜された後、15世紀頃のことであると考えられる。
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第四十三元亨二年八月 皇帝陛下特に綸㫖を下し總持寺を以て賜紫出世道場と為したまふ
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第四十四元亨の間准后懐妊あり總持寺放光菩薩の霊感に依て健やかに分娩したまふ
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第四十五元亨四年三月大師總持寺の十條亀鑑を書して永く法孫の遵式と為したまふ
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第四十六元亨四年七月大師二祖峩山禪師に桐竹綾山鴿色の法衣を授けたまふ
元亨4年(1324)7月、瑩山禅師が峨山韶碩禅師に法衣を伝授する場面。禅椅に坐しているのが瑩山禅師、画面左側で袈裟を拝領しているのが峨山禅師。峨山禅師には、總持寺住職を譲与する際に、法衣と袈裟が伝授された。瑩山禅師の親筆と伝えられる「總持寺譲与及法衣伝授語」(總持寺所蔵)に「梧竹の綾なす法衣、鴿色の袈裟なり」とある。また、『洞谷記』によれば、法衣と袈裟のほかに、拄杖・払子・戒策・道元禅師手製の竹篦も授与されたようである。
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第四十七元亨四年七月七日大師總持寺住持職を二祖峩山禪師に譲りて上堂退院したまふ
元亨4年(1324)7月7日、瑩山禅師が總持寺住職を峨山韶碩禅師に譲与し、最後の説法を終えて退院する場面。『洞谷記』によれば、峨山禅師が總持寺住職となってから、出家者が続出し、『般若経』が施入されるなど、吉事が連続したとされる。峨山禅師は總持寺でおおいに接化の手腕を発揮し、「二十五哲」とも呼ばれる多くの法嗣を輩出し、曹洞宗の教線拡大に大きく貢献した。
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第四十八元亨四年七月大師總持寺を退き永光寺に赴きたまふ
元亨4年(1324)7月、總持寺を退院した瑩山禅師が永光寺へ戻る場面。7月7日に總持寺の住職を峨山禅師に譲った後、7月10日には大般若転読法会の導師をつとめ、7月12日に永光寺へ帰山した。
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第四十九正中二年八月上旬大師永光寺にて微恙を示したまふ
正中2年(1325)8月上旬、瑩山禅師が軽い病(微恙)を患い、医師の診断を受ける場面。画面中央に坐すのが瑩山禅師、瑩山禅師の右手に手を当て、診脈しているのが医師。瑩山禅師は示寂する直前の7月より、自身の寂後を見据えて周到な準備を行っており、住職の選定方法、檀越に対する勤行の仕方、葬儀の際に著用する服装などを定めている。8月に入ってからは、明峰素哲禅師を僧禄に任じたうえで、永光寺第2代住職に充てている。ここから、瑩山禅師は、永光寺住職の明峰禅師を中心として曹洞宗教団が運営されていくことを期待していたと考えられる。実際、瑩山禅師の寂後、永光寺は15世紀半ば頃まで曹洞宗の中心寺院として機能し、明峰禅師の門下が隆盛した。
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第五十正中二年大師五十八歳八月十五日偈を書して掩然坐化したまふ
正中2年(1325)8月15日、永光寺において瑩山禅師が遷化(逝去)した場面。画面奥において、遺偈を書き終え、坐化(端坐したまま遷化すること)した瑩山禅師が画かれ、その周囲では僧俗が悲嘆にくれている。瑩山禅師の遺偈は以下のようなものであった。
自ら耕し自ら作る閑田地
幾度か売り来り買い去りて新たなり
限り無き霊苗 種熟脱す
法堂上に鍬を挿む人を見る -
第五十一正中二年八月二十一日大師の宝龕を荼毘し奉る
正中2年(1325)8月21日、瑩山禅師の宝龕(荘厳された棺)を荼毘(火葬)に付す様子が画かれる。瑩山禅師の葬送次第は不明であるが、葬儀に際して弟子たちが読み上げた祭文(追悼文)が伝えられており(『禅林雅頌集』所収「洞谷開山示寂祭文」)、瑩山禅師の厳しくも慈しみ深い人柄を偲ぶことができる。
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第五十二正中二年八月大師の舎利塔を總持寺へ送り奉る
正中2年(1325)8月、瑩山禅師の舎利塔を永光寺から總持寺へ移送する場面。江戸時代以降に成立した伝記では、荼毘に付したところ、無数の舎利(遺骨)を得たとされる。
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第五十三正中二年八月總持寺にて大師の舎利塔を安置し諷経を勤修し奉る
正中2年(1325)8月、總持寺に瑩山禅師の舎利塔を安置し、諷経を執行する場面。舎利塔前で導師をつとめているのは、總持寺住職の峨山禅師であろう。
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第五十四諸嶽山總持寺傳燈院
總持寺に建立された伝灯院が画かれる。瑩山禅師の霊廟は伝灯院と呼ばれ、伝記資料によれば、大乗寺・永光寺・浄住寺・總持寺の4ヶ寺に伝灯院が建立された。瑩山禅師には示寂後、仏慈禅師(後村上天皇、1353年)・弘徳円明国師(後桃園天皇、1772年)・常済大師(明治天皇、1909年)の3つの諡号が下賜された。
(各図解説:横山龍顯)