としまひすとりぃ
平成とぴっくす

豊島の平成史を彩る様々な出来事を現場レポート

男女共同参画

あの『エポック10(テン)』の時代

小野 温代

(平成4~6年 女性青少年課長/平成14~15年 政策経営部長)
キャプション:ありがとうエポック10-メトロポリタンプラザからの移転を前に(平成17年1月)
ありがとうエポック10-メトロポリタンプラザからの移転を前に(平成17年1月)

『エポック10』を書くことに私はずっとためらいがあった。30年も昔、わずかの期間を担当として過ごしただけで、正直なところ荷が重かった。それでも書こうと思ったのは懐かしい人たちと再会したからである。話しているうちに次第にあの新鮮で刺激的だった日々が甦り、まだ女性の管理職が少なかった時代に駆け出しだった私を育ててくれた人々を記しておくことは私の役目でもあるようにも思えた。私が知っているのは『エポック10』のごく一部に過ぎないが、当時の女性問題への対応もあわせて『エポック10』の濃く熱かったあの時代を率直に書いてみようと思った。そして未熟だった私自身の数々の失敗や拙い経験も深い反省と自戒を込めて記すことにした。


エポック10誕生前史

1 国連・国際婦人年を契機に動きだした女性政策

『エポック10』というのは豊島区立男女平等推進センターの愛称で、文字どおり男女平等を進めるための施設のことである。今は勤労福祉会館に開設されているが、これから書こうとしているのは、平成4年(1992年)6月10日に池袋駅西口のメトロポリタンプラザ10階に開設された、あの『エポック10』のことである。常連の利用者や私たち職員は愛情をこめて「エポック」とか「エポ10(テン)」などと呼んでいた。
もうかなり前のことで少し長くなるが、なぜ『エポック10』が開設されたのか、そのあたりの事情から書いていこうと思う。
なお名称や表現は当時のものをそのまま使用するので、お許しいただきたい。

いわゆる団塊世代が結婚や子育てを迎える昭和50年代は女性の大学進学率が上昇し、働く女性も増え、それとともに女性問題への関心が高くなっていた。
1975年(昭和50年)に国連が『国連婦人の十年』を定め、世界女性会議が女性の地位向上のための「世界行動計画」を採択すると、日本もそれを受けて法制度の見直しやあらゆる分野への女性の参加を中心とした「国内行動計画」を策定した。
当時、女性政策を推進するには専管組織・行動計画・拠点施設の三つが必要とされ、女性たちはそれを「女性政策の三種の神器」と表現して積極的な対策を求めた。しかもそれらを推進するのは従来のような男性中心のやり方ではなく、女性の「能力発揮」と「意思決定過程への参画」が前提とされたのである。
そこで豊島区は基本構想に「婦人の社会参加をすすめる」ことを掲げ、さらに基本計画に「婦人会館の建設」を挙げたが、地価は上昇し、適地はなかなか見つからなかった。すでに多くの自治体が婦人会館や女性センターを開設しているなかで、豊島区は後塵を拝した。

2 女性の登用と男女の役割意識のギャップ

豊島区の女性政策で最初に目に見える形にあらわれたのは「女性職員の登用」である。
この頃はまだ区役所内部では女性の活用はほとんど進んでいなかったが、区議会では戦後いち早く女性議員が選出されていた。市川房枝さんらと共に戦前から婦人参政権運動に取り組んできた武部りつさんが立ち上げた婦人団体協議会がバックになり、昭和27年(1952年)、関とし子さんと粕谷みや子さんのふたりが初めて区議会議員に当選した。彼女たちの活躍はめざましく、その影響もあったのか、それから後も豊島区議会には保守革新を問わず、毎回、女性議員が選出された。
それに比べると議場の区側の席は男性ばかりで、時折、保健所長に任命された女性医師が混じるくらいだった。当時、女性職員は軽微で補佐的な仕事を割り当てられることが多く、医師以外で管理業務に就く女性職員はいなかった。結婚や子育てのために退職する女性もいて、民間などではその働き方を「腰掛」とか「職場の華」と言って一時的なもの、飾り物として扱う風潮があったようだが、区でもやや似たようなところがあった。
よく引き合いに出されるのが「お茶当番」で、始業時と午後3時、時には昼休みにも職場の全員にお茶を入れ、終業時には全員分の湯飲み茶碗を洗う。これが仕事なのかサービスなのか判然としないまま、毎日、女性職員だけが輪番制でやっていた。「お茶当番」が女性職員の仕事とされたのは「家事や育児は女性の役割」という考えが背景にあったことは言うまでもない。
そうした傾向は年齢を重ねても変わらず、女性が係長に登用されることは極めて稀だった。女性は既婚未婚にかかわらず、職場で中心的役割を果たすことはあまり期待されていなかったのである。その結果、生涯賃金における男女の差は、30歳台以降、徐々に、そして次第に大きく広がっていった。

昭和56年(1981年)に係長選考が内部選考から応募型の試験選考に変わると、豊島区の女性係長は一気に増えた。子どものいる女性もいない女性も挙って受験するようになり、その結果、女性係長が占める割合は23区の中でも上位に位置するようになった。
この急激な変化に戸惑い、なかには「女に指図なんかされたくない」、「女は感情的だからやりにくい」、「部下の女性職員と揉めるぞ」などと、何とも情けない男性職員の声や的外れのお節介が面白半分に囁かれた。だが私の経験から言うと、どの職場でも女性職員は必ず助けてくれる。ピンチの時も私はずいぶん支えられたし、彼女たちの貴重なアドバイスで救われたことは多い。もちろん男性職員にも私の弱点をカバーしてもらったことは数えきれない。感情的になる人は男女ともいるし、反対を唱える人も同じだ。それは男女差の問題ではなく、個々人の性格の問題に過ぎないのだが、女性が上司になることに違和感を覚える職員は少なくなかったように思う。
いずれにしても、女性係長のパイオニアだった彼女たちは、こうしたデリケートな職員感情に気を配りながら実績を積み上げることを求められたのである。
そして何より重要だったのは区民の反応である。
その頃、区内には12の出張所があり、窓口業務だけでなく地域コミュニティの仕事も担っていた。所長が地域のそうした相談に乗ることは大切な任務だったが、当初は「女が所長じゃ気軽に話ができない」、「頼りにならない」などの声が上がったという。それでも地域で活動をしている人たちには女性も多く、また男女を問わず率先して協力してくれる人も少なくない。女性の所長たちも仕事に慣れるに従い、そうした人たちに出会い、多くのことを学びながら次第に地域の中に溶け込んでいった。
区民の期待を感じ、その期待に励まされ助けられながら職員たちは育っていく。出張所だけでなく、多くの職場で女性係長たちは次第に「女性のほうが話しやすい」、「きちっとしてくれるから安心だ」などと言われるようになり、ごく自然に受け入れられるようになっていった。
初めて女性が管理職試験に合格したのは昭和59年(1984年)で、田口陽子保育園長がその経験と実績を礎に管理職試験に合格した。そして翌昭和60年(1985年)4月、彼女は豊島区で初の女性の課長になった。
男女雇用機会均等法が制定されたのはその2年後の昭和61年(1986年)のことで、性別によって採用や昇進時に差別することを禁じた内容は、女性たちにとって大きな力なった。その影響もあって、しばらくは毎年のように女性の管理職試験合格者が出たが、その後はなぜか止まってしまった。日常業務が多忙だったせいか、管理職の仕事が過重に思われたのか、能力があっても管理職に踏み出すことを躊躇する女性職員は多かった。配属先が限定されているという指摘もあった。実際、課長でも係長でも前任も後任も女性という職場は多い。そうした部署は「ピンクポスト」などと揶揄され、女性の能力発揮を制限しかねないと疑問視する声があった。
だが当時はまだ積極的に女性管理職を増やそうとする人事戦略はなく、私を含めて上司や先輩が後押しする姿勢も弱かったように思う。男性同様、女性にも能力開発と適材適所の両方が求められるのは言うまでもないが、時代はまだ、そこまで追いつかなかった。

職層別職員数の推移(平成12年豊島区人事白書より)
職層別職員数の推移(平成12年豊島区人事白書より))

3 婦人行動計画「としま150プラン」策定

女性職員たちの活躍の場が広がり始めるとようやく「専管組織」の設置と「行動計画」の策定が動き出した。
昭和57年(1982年)に総務課に婦人問題担当主査が置かれ、その3年後の昭和60年(1985年)には婦人児童部婦人青少年課が設置された。ただこの組織については、女性と子どもを一緒にすることが妥当なのかという声が上がった。「女子ども」と言うと、それは弱者を意味するだけでなく「足手まといになる」という蔑みの意味を含むからだ。また「子どもは女だけが育てるもの」というメッセージに繋がりかねず、性別役割分業観を脱していないという批判や、父親、特に父子家庭への配慮が足りないという指摘もあった。
ともあれ、新設された婦人青少年課長に就任した田口陽子課長はすぐに行動計画の策定に向けて動き出し、「婦人問題懇話会」(以下「懇話会」という)を設置した。メンバーは学識経験者4名、各種団体推薦者12名、一般公募9名の計25名で、会長には社会学者で学習院大学教授の藤竹暁さんが、副会長には後に東京都副知事になった金平輝子さんが就任した。通常、審議会は委員の大半が男性で、女性は多くても2~3名程度、時には女性委員がいない審議会も少なくなかった。ところがこの懇話会では男性委員は5名だけで、残る20名は全て女性だった。また公募枠が9名と多いのも珍しかった。この枠には主婦や弁護士、教員などの女性たちに混じって、団体からの推薦ではなく自ら応募することを選んだと言う土屋武郎医師も数少ない男性委員の一人として加わった。
もちろん、この懇話会でも拠点施設について多くの時間を割き、さまざまな意見や要望が取りまとめられた。その結果、施設の名称は基本計画にあった「婦人会館」ではなく、「男女共同参画推進センター(としま女性センター・仮称)」に変えられ、またその開設準備や運営は区民参加によることが決まった。この変更は懇話会が、新たに建設する施設は単に女性が集まる施設ではなく、区民参加による男女共同社会を実現するための施設である、と明確に打ち出したことを意味している。
悩ましかったのは「婦人」「女性」の使い方だった。「婦人」という言い方は明治以降の近代化の中で「女も人間として尊厳ある存在である」という意思を持って使われ始めたといわれているが、「婦人」は既婚女性のイメージが強い上に、これに対する男性を指す言葉がなく、また「婦」は「女と帚(ほうき)」を組み合わせた文字であるため、女に家庭責任を押し付ける印象があるという意見もあり、次第に「女性」に言い換えるようになった。この頃はちょうどその移行期だったために、婦人問題、婦人行動計画、女性史、女性の労働環境など「婦人」と「女性」が混在する結果になった。
懇話会は2年の歳月をかけて議論を交わし、「自立の推進」「平等参加の促進」「平和の中の共生」の3つの柱の下に90の提言をまとめ、区長に提出した。区はこれを受けて内部の部課長で構成した婦人行動計画策定委員会を組織し、150本の計画からなる「豊島区婦人行動計画『としま150プラン』」をまとめた。いくつも異なった湯飲み茶碗やコーヒーカップが並んだ表紙には、「それぞれ個性は違っていてもあるがままの姿でいい」というメッセージを込めた。そのデザインは斬新で温かみがあると評判だったが、この行動計画ができた昭和という時代はそのあとわずかで平成に変わり、その間に建設計画は大きく進展していた。

1豊島区婦人行動計画「としま150プラン」(昭和63年1月策定)
豊島区婦人行動計画「としま150プラン」(昭和63年1月策定)

4 池袋駅西口開発と拠点施設整備の動き

昭和50年代から平成初めにかけて池袋駅西口地域は急速に変化した。
かつては旧国鉄用地、学芸大学付属小や芝浦工大付属高の跡地が広がり、それらが街の発展や治安維持を妨げかねないと住民は強い危機感を持っていた。そこで地元商店会や町会は、街の活性化のために将来を見据えた積極的な開発をするよう、関係機関に粘り強く働きかけた。その結果、ホテルメトロポリタンや東京芸術劇場が建設され、最後に残った芝浦工大付属高校跡地にも昭和61年(1986年)8月、新池袋駅ビルの開発が許可された。後のメトロポリタンプラザである。
豊島区はその開設を支援するため、区道の付け替えを行い建設用地の形状を整える一方、開発事業者に公的施設として駐輪場の設置と婦人会館スペースの提供を求めた。事業者は駐輪場には付置義務の倍以上の広さを確保し、婦人会館スペースについては1000㎡の床を廉価で貸与することを約束した。
こうして懸案だった「拠点施設」の開設はようやく動き出したのである。

新池袋駅ビル建設計画完成予想図(平成元年当時)
新池袋駅ビル建設計画完成予想図(平成元年当時)

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