豊島の平成史を彩る様々な出来事を現場レポート
あの『エポック10(テン)』の時代
小野 温代
(平成4~6年 女性青少年課長/平成14~15年 政策経営部長)エポック10誕生協奏曲
5 着々と進む開設準備
平成元年(1989年)4月、田口課長の後任となった川向良和課長は懇話会の部会長であった立教大学教授の庄司洋子さんを委員長に、関係団体や女性グループから選出された6名をメンバーとする「としま女性センター(仮称)開設準備委員会」(以下「開設準備委員会」という)をスタートさせた。メンバーはみな、初めて駅ビルの中にできる区の施設をこれまでにないものにしようと、まるで我が家でも建てるように熱心に取り組んだという。類似施設を何か所も見て回り、必要な機能、部屋数、設備、備品類、さらに壁や床の色までありとあらゆることを検討した。
その結果、メトロポリタンプラザ10階の1/3を占める約1,000㎡のスペースには150名収容の多目的ホール、会議室、保育室、相談室のほか、情報・交流コーナー、事務スペースなどを設置することが決まった。内装工事は経費2億76百万円で、平成3年(1991年)9月から半年間の工期で行われた。また賃料は他のテナントの1/5の単価、共益費はテナントより安いオフィス並みの単価というかなりの好条件の契約が成立し、土地を取得して施設を建設するよりはるかにコストは抑えられたのである。
開設準備委員会では人員体制についても話し合われた。メンバーが強く求めたのは専門家の配置である。多岐にわたる女性問題を解決するには、区の職員ではなく、常に新しい情報と専門的知識を持った人材がどうしても必要であると主張した。
区はこうした意見を参考に、元朝日新聞編集委員の佐藤洋子さんに所長を依頼し、また後に清瀬市男女共同参画センターの所長になる菊池靖子さんや、もりおか女性センターのセンター長になる平賀圭子さんを専門非常勤職員に採用し、さらに虎の門病院の堀口雅子さんや弁護士の角田由紀子さんなど、その道を代表する方々に専門相談員を依頼した。
こうした人たちの協力が得られたのは、何より委員長である庄司洋子さんの人柄とネットワークにほかならない。庄司さんと佐藤洋子さんは国の審議会などでよく隣り合う旧知の仲で、佐藤さんから新聞社を退職すると打ち明けられたとき、庄司さんはすぐに所長の話を持ち掛けたという。至便な場所にできる『エポック10』に佐藤さんは新たな可能性を感じ、庄司さんの話ならとすぐに引き受けてくださった。また専門相談員の堀口雅子さんや角田由紀子さんも庄司さんの人脈で実現した。婦人問題懇話会以来ずっと豊島区の女性問題に取り組み続けてくれた庄司洋子さんは、まさに『エポック10』の生みの親だったのである。
6 施設名に込められた想い
一方、議会からも男性の意識改革を促すために、施設名に「男」の文字を入れてはどうかという意見が出された。施設の呼び方は、婦人行動計画「としま150プラン」では「男女共同参画推進センター(としま女性センター・仮称)」と記載されていたものの、区民も職員も日常は当時一般的だった「女性センター」を使用していた。そこで区は新施設の設置条例制定に向けて、開設準備委員会などの意見を聞きながら改めて施設名称の検討を開始した。その過程では「男女共同参画推進センター」のほか「男女共同参画センター」なども候補に上がったが、結局、憲法に準じた「男女平等推進センター」が採用され、「豊島区立男女平等推進センター設置条例」は平成4年(1992年)3月30日に議会で可決された。
こうして、全国で初めて施設の名称に「男」という文字が入った「豊島区立男女平等推進センター」が誕生することになったのである。
さらに議会から愛称を公募してはどうかとの提案があり、シンボルマークもあわせて募集することになった。その結果、愛称には182点、シンボルマークには81点の応募があり、選考委員会でそれぞれの最優秀賞を決定した。
愛称の最優秀賞は19歳の女性の作品で、「地域住民の平等参加」を意味するEqual Participation of Community Habitantsの頭文字“EPOCH”に、「十人十色」や施設が開設される10階の“10”を付けた『エポック(Epoch)10』が選ばれた。これにはepochが意味する「時代を画するできごと、画期的な時代」に掛け、センターが画期的な存在、新しい拠点になるようにとの願いを込めた。またシンボルマークの最優秀賞に選ばれたのは29歳の女性の作品で、生命の源である海と女性をイメージしたコバルトブルーの柔らかな可愛らしいフォルムで、限りない飛躍と可能性を表現したという。施設の愛称やシンボルマークを公募する試みは、豊島区ではこの時が初めてだったが、新しい施設は、それによって一層親しまれる拠点になった。
ここで少し、その頃に話題になった女性問題について触れておこう。
まず一番は「セクシャルハラスメント」である。平成元年(1989年)、日本で初めて女性社員がセクシャルハラスメントを理由に上司を訴えて勝訴した。これが大きな話題となり、その年の新語流行語大賞(新語部門)まで取ってしまった。
またその年の合計特殊出生率は、それまで過去最低だった丙午(ひのえうま)年よりも下がり、「1.57ショック」と騒がれたが、その後も低下傾向に歯止めはかからなかった。だがそれまでほとんど注目されなかった「合計特殊出生率」という言葉は、この頃からマスコミにも取り上げられるようになった。
それに合わせて、女性の年齢別労働力曲線(M字曲線)もこの頃から話題に上るようになった。働く女性の数は結婚や子育ての年齢期になると退職する人が多いため、その時期には一旦減少するが、子育てなどが一段落するとまた再就職やパートタイマーとして働き出すため、再びその数は増加する。それをグラフに表すとMの文字に似ていることから「M字カーブ」と呼ばれ、女性の能力発揮やキャリア形成を妨げる要因として問題になった。こうしたこともあって女性が働き続けられるよう、平成3年(1991年)に育児休業法が成立した。
『エポック10』がオープンするのはそんな時代だった。
7 50倍近いスタッフ応募に高まる期待感
平成4年(1992年)4月1日、組織名の「婦人」を「女性」に変更するため、婦人児童部婦人青少年課が児童女性部女性青少年課に変わり、その課長に私が就くことになった。『エポック10』オープンのわずか2ヶ月前である。女性のための施設を所管する課長は女のほうがいいというのがこの異動の理由だったらしいが、それまで3年間、ずっと熱心に準備を進めてきた前任の川向課長は傍目にもわかるほどの落胆ぶりだった。だが私の方も何一つ事情が分からないままゴールに飛び込む役目を負わされ、呆然としていた。佐藤洋子さんや菊池靖子さんとは発令の日に初めて挨拶を交わしたが、話らしい話もしないまま、彼女たちは男女平等推進センターの職員とともに庁舎から15分ほど離れたメトロポリタンプラザ10階へ慌ただしく移っていった。
その後、私は時々『エポック10』の準備状況を見に行ったものの、よくわからないまま、ほとんど現場任せにしていた。しかしそれは間違いだったと後で悔やむことになる。
半月程した頃、『エポック10』から職員が血相を変えて飛んできた。募集していたスタッフの応募数が大変なことになっていると言う。『エポック10』では管理員とアルバイトを10人ばかり採用する予定で、3月末の広報としまに募集記事を載せていた。ところが内装工事が終わったばかりのメトロポリタンプラザでは、どのテナントも開店準備や搬入でごった返し、その間、郵便の配達はストップされていた。それがやっと一段落して留め置かれていた郵便物が一斉に配達され、応募書類も大きな布袋に入ったまま、ドンと運び込まれた。その数は実に474通。まさか、これほどの応募があるとはだれも想定していなかった。『エポック10』で働きたい人がこんなにいると思うとうれしかったが、その474人から10人余をどのように選考したらいいのか―まず試験をして人数を絞り込もうと考えたが、職員が反対した。募集要綱には面接で選考するとあり、問い合わせにも試験はないと答えていたらしい。だから採用は面接だけで決めるべきだと譲らない。しかし1人10分の面接でも10日かかる。『エポック10』のオープンまであと1か月半しかないのだ。第一、面接会場は……私は職員を前にため息をつくしかなかった。
結局、ゴールデンウィークの3日間に近くの小学校の教室を借りて集団面接をすることにした。面接官は佐藤所長と私のほかに若手の課長4人に応援を頼み、2人ずつ3チームを作った。応募者474人÷3チーム÷3日と計算し、1チーム1回10~12人を1時間ずつ面接する。毎日午前2回と午後3回、それを3日間続けることにした。応募者1人当たりにすると10分程度と面接時間は短いが、1時間の中ではいろいろな様子もわかる。一度に10人の面接は乱暴だと言われても仕方ないが、それしか方法がなかった。そのかわり、面接前に簡単な志望動機など、伝えたいことをエントリーシートに書いてもらって補った。
3日間の面接はほんとうに大変だった。面接を受ける側も緊張するが、するほうも緊張する。気の毒だが、大半の人は選から漏れることになるので、せめて好い印象で帰ってもらいたかった。だが不慣れなこともあり、神経が疲れ、体力も消耗して次第に余裕がなくなった。ボランティアで応援に来てくれた4人の課長たちも相当疲れたはずだが、ビール1杯のお礼もせず仕舞いになってしまった。
私は佐藤所長と組んだのだが、その時初めて一流の新聞記者のインタビュー術というものを目の当たりにした。佐藤所長の質問は私とはまったく格が違うのである。端的で適格、鋭い質問ながら温かい。相手が緊張して混乱していると思えば、それを見事に整理して答えやすく導く。アルバイトの採用面接にこれ程の質問が次々と繰り出されることに私は感動すら覚えた。私は佐藤さんと仕事ができることに感謝した。これが佐藤洋子さんとの初仕事だった。
8 誕生前夜のかすかな不安
5月半ばを過ぎた頃、団体登録の説明会を開いた。各団体が複数人で参加することを想定してかなり広い会議室を用意したが、参加者は数えるほどだった。数人のグループがいくつかと個人での参加者が2、3人いただろうか、私が見知った人は誰もいなかった。あれほど期待されていたはずなのにどうしたのだろうと首をひねった。
説明会が始まり、職員が登録できる団体やその方法を説明し、何か質問はないですかと尋ねると、真ん中に座っていた女性が少し険しい顔で、「今日はどういう会なのですか?」と言った。私は意味が分からなかったが、職員がオープンしてすぐに使用してもらえるように事前に開催したことを説明すると、今度は「開館記念のイベントはどうなっているのですか?」と言った。私は「準備は順調に進んでいます。ぜひ皆さんでお誘いあわせの上お越しください」と答えたが、その時、もしや、と嫌な予感がした。『エポック10』は区民と共につくった施設のはずなのに、私たち区民に何の相談もなく、勝手にオープンさせるのか―あの女性が言いたかったのはそういうことではなかったか。
女性の反応は冷ややかだったが、それ以上の質問はなかった。
改めて調べてみると、開設準備委員会はその年の3月31日に任期が終了していた。オープニングの企画はその委員会でも議題に上ったことがあり、区はその時の意向を受けて準備に入り、そのまま区だけで進めてきたのだという。だが区民の側では4月以降も何らかの組織がつくられ、区と区民が一体になってオープニングを迎えるつもりだったのではないだろうか。それがオープン間近になって、一方的に説明会が開催されることに納得がいかなかったのではないか―私はそう感じた。
それを職員に話すと、多くのテナントが入るメトロポリタンプラザにはたくさんの決め事や段取りがあり、多くをビル管理会社の指示通りに行わなければならない。物品の納入一つ思うようにはいかず、オープニングイベントの調整や準備もある中でとても区民と会議をする余裕はないということだった。それも十分理解できたが、それでも私には釈然としないものが残った。開館に向けてのあわただしい日々の中で時間だけが過ぎてしまった。
9 輝かしい船出
平成4年(1992年)6月9日、「豊島区立男女平等推進センター開設記念式典」が開催された。あいにくの雨模様だったが、パステル調の青とピンクの柔らかな色調に統一された新しい施設には200人近い招待客が集まり、晴れやかな雰囲気に包まれていた。式典に先立って愛称とシンボルマークの考案者の表彰が行われ、続いて開かれた式典では加藤一敏区長の式辞の後、佐藤洋子所長が挨拶に立った。
実はこの時、私は初めての司会で緊張してしまい、肝心の口火を切る場面で「ただいまから豊島区立女性センターの」と、施設名を間違えてしまったのである。この頃の式典は厳かに、とはいかないまでも、整然と進めることが求められていたのに、である。あわてて「男女平等推進センター」と言い直したものの、会場は大爆笑。私はその後ずっと冷や汗をかきながら進行した。佐藤所長はこのことを受けて「ここは単なる女性センターではなく、男性も巻き込む男女平等推進の拠点にしたい」と挨拶の中で切り返し、カバーしてくださった。さらに開設準備委員会を代表して挨拶に立った庄司洋子さんも「小野さんが間違えるのも無理のないことで……」とこれまでの施設名の変遷を披露しながらあたたかい言葉を添えてくださった。二人には感謝しかないが、初日から手痛い失敗をしてしまった。
そして翌10日、「男女平等推進センター『エポック10』」は、ついにオープンした。
開館と同時にたくさんの人が晴々とした表情で訪れた。だが汗だくになりながら「やっとたどり着いた」とため息交じりに話す人も少なくなかった。『エポック10』へ来る方法はセンターエレベーターに乗って10階に上がるだけなのだが、そのセンターエレベーターがわかりにくかったのである。誰かに尋ねようにもビル内はどこも大変な混雑で、従業員たちは自分の店舗以外のことはまだ何もわからなかった。後日、講演に来てくれた田嶋陽子さんも相当迷ったらしく、登壇するや否や、「ここって何てわかりにくい施設なの! 汗びっしょりよっ!」と怒り心頭の第一声をあげ、参加者の苦笑と共感を誘った。
オープニングイベントは6月いっぱい続き、ひと月のうちに講演会13回、シンポジウム2回、そのほか講談や映画の上映会などを開催した。どれも盛況だったが、特に当時テレビで大人気だった田嶋陽子さんの講演には大変な人が集まった。150名収容の多目的ホールからは人が溢れ、入りきれなかった人達には開けたままのドアの外に椅子を置き、そこに座って聞いてもらった。それでも田嶋さんの視点の鋭さや話術の巧みさに引き込まれ、十分満足したようだった。
当時、メトロポリタンプラザ8階には、文化ホールがあった。オープニングイベント期間は建築家の黒川紀章さんがコーディネーターを務め、「共生」をテーマに数多くの講演会やシンポジウムが開催された。「共生」は「男女平等」にも通じるテーマと思い、私は黒川さんの基調講演とシンポジウムを聞きに行った。黒川さんは建築の分野にとどまらず、さまざまな分野での「共生」の必要性と重要性を訴えた。そして「これからの日本の建築界をリードする若い建築家を紹介します」と言って二人の建築家を紹介した。そのひとりが今まさに日本を代表する建築家の一人で豊島区役所の設計も手掛けられた隈研吾さんだった。隈さんは「これからの建築はその土地にある材料やその土地で長く使われてきたものを使っていくことが大事だ」というようなことを淡々と話された。私にはよくわからなかったが、なぜか印象に残って、その後、隈さんが設計した建物を見るたびにあの時の話が思い出された。
またメトロポリタンプラザ1階には東武美術館も同時オープンした。東口の西武百貨店が開設したセゾン美術館は現代アート中心だったのに対し、西口の東武美術館はオープニングに「エルミタージュ美術館展」を開催するような本格派の美術館だった。
バブル経済はすでに崩壊していたものの時代はまだ十分に明るく、東京芸術劇場とともにメトロポリタンプラザ一帯も文化芸術ゾーンを形成しようと輝いていたのである。