豊島の平成史を彩る様々な出来事を現場レポート
あの『エポック10(テン)』の時代
小野 温代
(平成4~6年 女性青少年課長/平成14~15年 政策経営部長)エポック10に魂を吹き込む
10 まつりのあとの静けさ
そんな頃、区内で最大の女性団体である婦人団体協議会から総会の案内状が届いた。会場は、と見ると、「雑司が谷社会教育会館」とあった。思わず、えっ?と息をのんだ。婦人団体協議会は婦人問題懇話会の主力メンバーで、その規模からしても最初に『エポック10』を利用してもらわなければならない団体だった。私はてっきり総会を兼ねて施設の見学に来てもらえるものと思いこんでいたが、オープン早々の予約は難しいと考えたのだろうか、それなら相談してくれれば良かったのに、と首をひねった。
会長の坪田キネ子さんに電話をすると「雑司が谷のほうが足の便がいいから」と言われ、私は言葉を失った。では一体だれが『エポック10』を使うのか。何のために男女平等推進センターをつくったのか。
私は団体登録説明会のときの女性のことを思い出し、やっぱり、と思った。一度でも女性団体や開設準備委員会のメンバーに集まってもらうべきだった。そこで佐藤洋子所長を紹介し、施設の準備状況、さらにその後の事業について話しておけば良かったのだ。私の消極的な姿勢が区民と『エポック10』の間に溝を作ってしまった、と思った。
オープニングイベントが終わり、7月に入ると館内はひっそり静まり返った。しばらくは後片付けで忙しい日々を送ったが、その後は訪れる人も数えるほどになり、冷房がよく効いた館内はひんやりと静まりかえった。手垢のついていない壁はこんなにも冷たいものかと思う程だった。採用面接に集まってくれた人たちはどこへ行ったのだろう、あの時の熱気や期待感はどうしたのだろう……職員からは、徐々に増えますよ、とたしなめられたが、下階の店舗が夏のセールで賑わっているのを見ると、そんな悠長な気分になれなかった。
ある日、『エポック10』はきれいだけど行きづらい、という噂が耳に入ってきた。区の施設はほとんどが住まいの近くにあるのでいつでも気軽にサンダル履きで行けるが、デパートの上にある『エポック10』には服を着替えてでないと気後れする、というのである。その上、偉い先生方がいるので敷居が高いとも言われた。
一方『エポック10』はあまり使われてないという情報が流れたのか、青少年育成委員会や保護司会から『エポック10』を使いたいと申し入れがあった。利便性の良い施設なので、空いているなら使わせてほしいと言う。しかし『エポック10』は「女性問題の解決と男女共同社会実現」のために設置された施設で、条例上、だれでも自由に使うというわけにはいかない。とは言え、実際に利用者は少なく、そのまま空いた状態を放っておいては批判の的になりかねず、下手をすると女性問題への反発になってしまう。悩ましかった。
こうした問題はどの区でも直面するらしく、その対応はおおむね二つだった。一つは婦人会館や女性センターを女性専用施設として捉え、女性の活動であれば歌や踊りなどの趣味のものも含め何でも認めるというもの、もう一つは空きがあれば目的外使用を広く認め、貸し出すというものだった。だがどちらの方法も時間の経過とともに本来の女性問題の解決とは違う利用形態が大勢を占めるようになっていったという。
『エポック10』をそんな風にしたくはなかった。第一「男」という文字が入っている男女平等推進センター『エポック10』は女性専用施設にはなり得ない。また目的外使用を広く認めれば他の文化施設と変わらないものになりかねず、この施設の開設に長年、努力してきた人たちに申し開きができない。
11 見えない壁を取り除く
考えた末、二つの方法を試みることにした。
一つは、『エポック10』を利用しようとする団体には申請書に「男女平等」との関係を書いてもらうことだった。つまり団体の設立趣旨やメンバーの男女比、あるいは『エポック10』を使用する目的やテーマが「男女平等」とどのように関係しているのか、あるいは今後どのように改善しようとしているかを書いてもらうのである。もちろん、それがない場合はご遠慮願うが、何とか工夫してもらうのである。インチキ臭いと思われるかもしれないが、普段あまり関心のない人にも『エポック10』を使うときには女性問題や男女平等について考えるきっかけにしてもらいたかった。ささやかな啓発活動である。
もう一つは、来場者が『エポック10』とつながりやすい関係をつくることだった。施設にはいろいろな人が訪れるが、その人たちにまた来たいと思ってもらえれば『エポック10』の裾野は広がる。職員たちには、あいさつや施設の感想を尋ねるなど、来場者にちょっと声を掛けてほしい、と頼んだ。これはリピーターを増やすための作戦だが、それだけではない。『エポック10』の設置目的である「男女共同社会の実現」は多くの女性たちの夢であり望みである。だから『エポック10』にはだれもが憧れるような“素敵さ”が必要だった。しかもその“素敵さ”はだれでも手が届くものでなければならない。鑑賞の対象ではなく、そこにつながって共感できる親しみやすさが大切だ。「男女共同社会の実現」は手の届くものだと区民に実感してもらわなければならないからだ。
佐藤所長にも、さり気ないあいさつや何気ない会話は区民や来場者との距離を縮めるきっかけになる、と依頼した。記者生活しか経験がないにもかかわらず、それからは彼女は時間があると率先してフロアへ出ていき、館内の人たちに声を掛けてくれた。
効果は徐々に表れた。特に大きかったのはやはり佐藤所長である。偉い先生だと思っていたのに気さくに挨拶してくれたと、多くの区民が感激し親しみを持ち、次第に自分たちから挨拶をするようになった。あの冷たかった『エポック10』の壁も少しずつ温かみを持ち始め、オープン前に開いてしまった区民との溝もだんだんに埋まっていった。翌年には婦人団体協議会の定期総会も『エポック10』で開かれることになり、佐藤所長も来賓として招待され、メンバーとの距離は一気に縮まった。施設の利用件数は初年度が10カ月で1万件程度だったが、二年目には倍の2万件を超え、冷え冷えとした空気は穏やかなものに変わり、次第に和やかなものになっていった。
12 エポック10ならではの多彩な事業展開
本格的に事業が始まったのはその秋からだった。
最初に学習コーディネーターの菊池靖子さんが企画したセミナーを開催したが、昼間はやはり参加者が少なかった。すると彼女は人の多い1階のエスカレーター乗り場まで降りて行き、チラシを配り始めた。それを知った佐藤所長も『エポック10』の施設の前で声を掛けながらチラシを配った。二人の行動力に圧倒され、職員たちも「佐藤洋子のチラシ配りなんて前代未聞」などと言いながら手伝った。
「女子学生のための就職作戦」は佐藤所長の肝いりの事業で、広報されたとたんに電話が鳴りっぱなしの状態になり、申し込み数は500件を超えた。交通機関の結節点である池袋は都内の多くの大学から至便なので、それを活かして女子大生のための講座を持ちたいと、佐藤所長は当初からこの企画に力を入れていた。男女雇用機会均等法が施行されてからは女子大生の就職間口は広がったと言われていたが、実際はかなり厳しいものだった。その電話の本数と彼女たちの必死さに動かされ、その年は「キャリアトーク」を追加し、翌年度からは春と秋の2回、講座を開催することにした。これは『エポック10』の看板講座になった。
女性の再就職講座は21世紀職業財団とタイアップして実施した。実は予算があまりなく、その年の開催を半ばあきらめていたところ、財団の理事長から佐藤所長に電話があったのだ。カリキュラムや講師、チラシの作成などは財団が準備するので、『エポック10』は会場の提供と参加者の募集をしてほしいという、まさに渡りに船の提案だった。財団の実践的なノウハウは当時、増えていた再就職を望む女性たちにも評判が良く、実際に再就職につながったという参加者の声が数多く寄せられた。
女性史の編纂は『エポック10』オープンの二年前から取り組んでいた。
編纂指導員に長谷幸江さんを迎え、編纂員の養成講座を修了した22歳から76歳までの区民の女性25名が、戦前から豊島区内に住んでいた68歳から100歳までの女性約200名を取材した労作である。タイトルの「風の交叉点」は、何本もの鉄道が交差する池袋に掛けて、時を越えて人々が行き交う所という意味を込めた。表紙は竹下夢二の絵を使ったデザインで、ドメス出版が発行してくれた。戦前戦後、時代が大きく変わる中で、豊島区で生きてきた女性たちが何を考え、何を思い、どんな暮らしをしてきたのか、その言葉を拾い、それぞれの語り口を活かした「聞き書き」という手法で毎年1冊ずつ発行した。第1集は26人、第2集は89人の無名の女性たちの声を載せた。第3集は柳原白蓮、丸山千代、斎藤百合、羽仁もと子など、社会的に評価を受けた女性たちを取り上げ、第4集は明治から現在までの通史としてまとめた。
編纂員のなかで最高齢だった横谷イセ子さんは全巻が完成した後、朝日新聞のひととき欄にこんな文を寄せた。
―外出が多くなる。明治生まれの夫へ恐る恐る話を切り出すと、案の定「老女の参加することではない」と一蹴された。いままで夫の意に沿わないことはしたことがなかったが、75歳の最後の抵抗と、参加することを決めた……打ち上げのパーティへ行くとき「今日で最終です。お願いします」と言う私に、夫は初めて「うん」と言ってくれた―
第1集は平成4年3月の発行で、私は女性青少年課長に着任早々、真新しい冊子を手にした。それからまもなくドメス出版社長の鹿島光代さんが区内の書店でも販売しないかという話を持ってきてくれた。ドメス出版が一部を買い取り、販売ルートに乗せてくれるという。多くの人に手に取ってもらいたい気持ちは私も同じだったので、すぐに手続きを進めた。4月下旬には店先に並ぶと聞いて、私は20日頃から毎日、池袋周辺の書店を歩き回った。そして「風の交叉点」は初めて書店に並んだ豊島区発行書籍になった。
13 民間所長の奮闘に導かれて
『エポック10』の事業が軌道に乗ってきた頃、佐藤所長からアップデートなテーマをもっとスピーディに取り上げたいという提案があった。刻々、変わる世の中の動きを直ちに捉えたいという思いは記者魂そのものだ。所長自身がインタビュアーになり、1テーマ1回限りで、その時々のトピックを直接、当事者からわかりやすく解説してもらう。新聞記者ならではの切込みとわかりやすいトークは佐藤所長の真骨頂だ。この「インタビュートーク」はすぐに人気講座になった。
せっかくなのでブックレットにしてはどうかという話が出たが、職員は手一杯で、第一予算がなかった。すると所長は「私に任せて」と言って、自宅からワープロを持ち込み(当時のワープロはかなり大きくて重かった)、テープ起こしから編集構成に至るまで、すべて一人で完成させてしまった。そのスピードはさすがのもので、“早書き洋子”の異名をとる彼女の仕事ぶりに私たち職員は舌を巻いたのである。経費も、それを販売して何とかして賄ってしまった。
佐藤洋子さんは週4日の勤務のなかで、事業の企画調整、開催時の挨拶進行、シンポジウムなどのコーディネーター、インタビュー、原稿の執筆に加え、区民会議や実行委員会など区民との会議には必ず顔を出した。勤務日でない日は国の審議会へ出席したり、全国各地に講演に出掛けたりと、実に多忙な日々を送っていた。
『エポック10』は駅ビルの中に開設された公共施設としても注目され、しばらくするとその見学者も訪れるようになった。その上、佐藤さんが講演に行くたびに「全国で初めて施設の名称に『男』という文字が入った豊島区立男女平等推進センター所長の佐藤洋子です」と挨拶をするので、『エポック10』の名は全国に広がり、見学者は遠く青森をはじめ全国から集まるようになった。3~4人の小グループから大型バスの団体まで、その数は1か月に100件を超え、佐藤所長や次長はその対応で大わらわとなった。
区民からは「他の区の人から豊島区にいい女性センターができたんだって?と言われたけど、知らなかった」という話を何度も聞いたが、『エポック10』の知名度はドーナッツ状にまず地方や周辺区から高まり、それから区内に浸透していった。
実は『エポック10』がオープンする前、私は議会で課長と所長の職務の違いについて質問を受けたことがある。その時はよくわからないまま「所長には『エポック10』の顔として、その人脈を運営全体に活かしていただくことを期待している」という答弁をしている。これは前任の川向課長からの受け売りだったが、実際は少しちがっていた。佐藤所長は国の審議会で得た最新の情報を区民や私たち職員に惜しみなく伝え、懸命に『エポック10』の事業を推進した。気さくな人柄で、求められれば誰にでもアドバイスし、問題の解決に当たり、そして何より、『エポック10』をブランド化した。その奮闘のおかげで年間の施設利用件数は年々増え、平成10年度(1998年)には3万件に達し、佐藤所長の最後の年となる翌11年度 (1999年) には34,000件を超えた。この数字はその後一度も破られることはなかった。
あるとき、些細なことで私は佐藤さんに泣き言を言ったことがある。すると佐藤さんから「あなた、仮にも課長を張ってるんだから!」と喝を入れられた。ちょっと呆れたように口をついて出たその喝には、微笑みとともに佐藤さんの生きる気合のようなものがあった。それ以来、私は仕事で躓くと、いつもあの夜の寿司屋さんを思い出しながら、「仮にも私は○○を張ってるんだから!」と自分に喝を入れたものである。