としまひすとりぃ
平成とぴっくす

豊島の平成史を彩る様々な出来事を現場レポート

男女共同参画

あの『エポック10(テン)』の時代

小野 温代

(平成4~6年 女性青少年課長/平成14~15年 政策経営部長)

エポック10、その光と影

14 「男女平等」への根強い偏見

良いことばかりではなかった。
『エポック10』のアクセスのわかりにくさは相変わらずで、利用者からはもっと案内表示を増やして欲しいという声が多く聞かれた。当時、かろうじてあったのは3基あるセンターエレベーターの中の表示板で、その10階のところに「豊島区立男女平等推進センター」とあるだけだった。
それがある日、その文字が消えていた。10階部分の下半分はそのままで、「豊島区立男女平等推進センター」の文字があった上半分だけが真っ白になっていた。これは区民からも問い合わせがあると思い、私は次長といっしょに事情を聴きにビル管理会社に行った。ところが対応に出てきた男性は予想以上に厳しく、こちらの顔も見ず、木で鼻をくくったように「説明の必要はありません」と言うだけだった。確かにエレベーターの表示板はビル管理会社のもので、いちいちテナントの意見を聞く必要はないかもしれない。だが『エポック10』は公共施設なのである。建設当初からの関係を考えれば、事情くらい説明してくれても良いはずだった。
何を言っても、何度言っても、男性は頑なに「表示はしない、説明の必要はない」の一点張りだった。私が女だからなのか、とも思った。だが、もしかすると「男女平等推進センター」の名称について、何処からか、何らかの指摘があったのではないか―男性の態度はそう推測させるものだった。仕方がないので、愛称名でも良いから表示してほしいと依頼し、それができない場合は区として改めて要請させてもらうと告げて帰った。
しばらくすると、センターエレベーターには、愛称の「エポック10」という文字とコバルトブルーのシンボルマークが表示された。普通なら喜ぶところだが、まだ男性の態度に腹を立てていた私は、きっと「エポック10」の文字数だけではあの空白は埋まらなかったのだ、と勘繰った。それでもとにかく表示はされたし、前より目立つ。ビル管理会社も多少は譲歩してくれたと、少し頬をゆるめた。
しかしこの事件は当時の一般企業の「男女平等」に対する意識を肌で感じる事件だった。憲法制定から50年近く経っても、「男女平等」という文字すら目にしたくないという意識がビル管理会社の内外に存在したことはまちがいない。企業が変わらなければ男女平等は絵に描いた餅である。その風穴はどこにあるのだろうと、暗い気持ちになった。

15 女性問題に対する温度差

 婦人行動計画「としま150プラン」の推進は女性政策の基本となる最も重要な仕事だ。それには区民と学識経験者からなる区民会議と、区内部の部課長職員からなる推進委員会の両輪で取り組んでいた。
区民会議の委員は12名で、団体の推薦や公募で選ばれた区民委員は男性が1、2名いるだけで、ほとんどが女性だった。会議は委員長の庄司洋子さんに佐藤所長も加わって、アップデートなテーマを身近な問題に引き寄せ、わかりやすい議論が進められていた。男性委員も気後れするなどと冗談を言いながら率直に発言し、和やかで建設的な意見交換がされていた。
一方、推進委員会は委員長の助役をはじめ20名の委員はほとんどが男性で、女性は職員代表委員の女性係長と事務局の私の二人だけだった。日頃は気さくな部長も親切な先輩課長もこの委員会では一様に固い表情で、私が何を言い出すのかと構えている雰囲気があった。
多くの女性政策はそれまでとは違う新しい概念で社会や制度の在り方に問題を提起する。男性の部課長たちはそれを懸命に理解しようとはするものの何か責められている感覚があったのか、推進委員会の空気はいつも固かった。私自身もしっかり説明できる自信はなく、それに “強い女課長”のレッテルを張られるのも嫌で、どこか肝が据わっていないところがあった。
平成5年頃だったか、世界女性会議が次の北京会議に向けてDV(ドメスティック・バイオレンス)防止を強く求めるようになり、区でも対策が必要になった。推進委員会でそのことを説明すると会議室は何とも言えない空気に包まれ、沈黙が続いた。少ししてから、ある部長が「そんな家庭内のことまで、区が口を出すの?」と小声で呟くように言った。すると他の部課長たちも「そのとおり」と言わんばかりに一斉に私の顔を見た。
今でこそDVは命をも危険に晒す重大な問題であることは多くの人が知っている。だが、当時の風潮はまだ「夫婦喧嘩は犬も食わない」ということわざのとおりだったのである。
私は少し息を吸って立ち上がり、夫婦間であろうと暴力は否定されなければならないという世界女性会議の趣旨と当時の夫婦間の暴力件数を説明し、何とか行動計画に盛り込む了承を得た。
多くの女性たちが悩み、苦しんできた問題を顕在化させ、警鐘を鳴らし、是正していくことが女性政策の役割なのだが、それを言語化し、たくさんの人に認識してもらうことはむずかしい。私自身の力不足なのだが、特に男性にはなかなか問題の本質が伝わらない歯がゆさを幾度も感じた。
またセクハラやDVの啓発はかえって被害を増やすだけで逆効果だという区民の声もあった。しかし警察が「泥棒は犯罪だ」と広報をすると泥棒の発生件数は増えるだろうか。警察は詐欺や空き巣、痴漢など、さまざまなキャンペーンを行っているが、それで被害が増加したという話は聞かない。警察がキャンペーンに力を入れるのは、啓発活動には抑止効果があるからだが、それにもかかわらず、女性問題になるとなぜか啓発は逆効果だと考えてしまう人がいるのは残念だった。

ある日、福祉事務所長が『エポック10』の相談業務と福祉事務所の婦人相談を統一しようと持ち掛けてきた。女性の悩みの相談窓口は一本化したほうがわかりやすいと言うのである。しかも福祉事務所の婦人相談は法律で廃止できないから『エポック10』の相談業務を福祉事務所が吸収するというのだ。彼は良いアイディアだと思っていたらしく、簡素で効率的な組織にしようと意欲的だった。
しかし、もし経済的に恵まれた家庭でDVが起こった場合、その被害者は福祉事務所に行くだろうか。経済的に豊かでもDV問題をかかえた夫婦は少なくない。経済的にゆとりのある家庭のDV被害者に、福祉事務所は精神面、健康面、法律面で対応できるだろうか。その時はそんな話をして断ったが、彼は翌年もまた同じことを言いに来た。仕事熱心で、まじめでおもしろい男だったが、まったくそこまで頑固だとは思わなかった。だが、私のほうがもっと頑固だったらしく、この話は消えた。世間はまだ、特に男性はDVをよく理解していなかったのである。

16 平成不況が忍び寄る中でつながり合った人たち

実は『エポック10』がオープンした平成4年(1992年)には、バブル経済はすでに崩壊していた。景気は確実に悪化していたが、それでもまだ、世間には経済はいずれ回復するだろうという楽観論が覆っていて緊迫感はあまりなかった。しかし平成5年(1993年)になると役所でもさまざまな予算が削られるようになり、不況の風が吹き始めていた。福祉事務所長が組織の見直しを言ってきたのも、実はそんな事情があったからだった。
 民間はさらにきびしく、メトロポリタンプラザの運営にも気になることが起こり始めた。オープンして半年ほどした頃、ビル管理会社の例の無愛想な担当から呼ばれ、『エポック10』の賃料の値上げを求められた。当初は他のテナントの1/5の単価で契約していたが、それを1/2にするというのである。一年も経たないうちに倍以上の値上げは議会が納得しない、と断ると、交渉する必要のない共益費の方を上げてきた。その時はムッとしたが、後で考えるとメトロポリタンプラザもかなり厳しい状況になっていたのだろう。8階の文化ホールも初めの頃は盛んに文化イベントなどを開催していたが、次第に使われなくなってしまった。

それでもまだ多少ゆとりがあった時代で、『エポック10』の利用者は年を追うごとに増え、内容も充実していった。私のいた三年間だけで、オープニングイベントのラストを飾った法政大学教授の田嶋陽子さんのほか、東京家政大学教授の樋口恵子さんや東京大学教授の上野千鶴子さん、アグネス・チャンさん、落合恵子さんら名実相伴った講師を次々招き、講演会やシンポジウムを開催した。さらに日本女性学会の東京大会の会場にもなり、作家の津島佑子さんらの講演が行われるなど、佐藤洋子さんが所長であることにより普段なかなか接することがない講師や当時の最先端の考え方に触れることができた。
だが佐藤さんにはよく講師の謝礼の額が低すぎると言われた。講師料は23区の基準で決めていたが、他の都市に比べると確かに額は低かった。佐藤さんは、きっとどこかでその償いをしてくれていたのだろう。私たちは佐藤さんに甘え過ぎていた。

多彩な講師による講演会の展開多彩な講師による講演会の展開
多彩な講師による講演会の展開

団体の活動も次第に活発になっていった。それとともに婦人団体協議会や自主グループ連絡会、その他多くの団体がそれぞれの活動だけでなく、交流もさかんに行うようになった。例年6月に開かれる「エポック10まつり」は、佐藤所長が名付けた『輝いて、女(ひと)と男(ひと)』をメインテーマに掲げ、実行委員を中心に多くの人たちの奮闘により盛り上がり、『エポック10』としての一体感を創り上げた。毎年、大勢の人が来てくれたが、その中には男女雇用機会均等法の成立に尽力され、その後、文部大臣になられた赤松良子さんや、東京都初の女性副知事で、かつて区の懇話会副会長を務めていただいた金平輝子さんの姿もあった。
私自身も区民のそうした様々な活動に触れながら、たくさんの刺激を受け、学び、多くの人と親しくなった。時には叱責され、時には励まされ、時には思わぬ感謝の言葉をいただき、人としてのふるまいを教えられた。そこで出会った人々は、年齢はさまざまだったが、区民と区役所の課長という関係を越え、人生の先輩であったり、友人や親せきのような温かな親しみを覚える関係をつくってもらった。

エポック10まつり‘93-佐藤所長と金平輝子さんを囲んで(平成5年)
エポック10まつり‘93-佐藤所長と金平輝子さんを囲んで(平成5年)
多くの人たちがつながり合ったエポック10まつり多くの人たちがつながり合ったエポック10まつり
多くの人たちがつながり合ったエポック10まつり

そして、平成7年(1995年)3月末、私は3年間過ごした女性青少年課を異動することになった。楽しかった。かけがえのない日々だった。後ろ髪を引かれる思いはあったが、同時にどこか自分の役割は終えたような気もしていた。『エポック10』の事業がもっと前進することを願いながら鈴木きみ課長に引き継いだ。
次の職場へ移り、ようやく気持ちを切り替えた頃、利用者の主だった人たちが会を開いてくれた。懐かしい人たちとの再会やおしゃべりを楽しみに行くと、多目的ホールには思いがけず大勢の人たちが迎えてくれた。そうしたことに不慣れだった私は少し戸惑ったが、やはりうれしかった。主催者の一人に今日は思い出を語る会だと思って来たと話すと、「そんなのんびりしたことを言っているようでは困る」と一蹴されてしまった。それは確かに私が考えていたような会とは少し違って、管理職としてもっと羽ばたいてほしいと私を激励する会だった。スピーチをしてくれた女性たちからは、区民にとって女性管理職は数もポストももっと必要であり、区民の抱えるさまざまな問題を女性の視点で解決していってほしいと訴えられた。彼女たちの思いに圧倒されながら、それでも私は改めて背筋が伸びる思いがした。
それから後も時折、彼女たちの何人かは私を『エポック10』に呼び、今は何の仕事をしているのか、どんな課題があるのか、自分たちとはどんなふうに関係しているのかを知りたがり、彼女たちの不満や経験をさまざま話してくれた。おかげで私はどんな仕事に就いた時も、彼女たちの向こうに区民の姿が見える気がした。その回数は次第に減ったものの退職の頃まで続いた。
私が女性青少年課を異動してから4年後の平成11年(1999年)3月末、佐藤洋子さんは東京都女性財団の理事長に就任するため、『エポック10』を去り、後任に元読売新聞編集委員の深尾凱子さんが就任した。後日、佐藤さんから送られてきた葉書には「エポック10を離れてからの方が、豊島区の親しかった方たちの友情が身にしみて、あの七年間は本当に大切な日々だったと改めて思います」とあった。それは私も同じ気持ちだった。

17 エポック10移転…第2ステージへ

景気の低迷とともに女性政策への批判が強まり、女性問題に対するバックラッシュが激しくなっていた。
その一方、平成7年(1995年)に開かれた北京での世界女性会議の成果を、それぞれの地域で条例化に繋げようとする動きも活発になった。平成12年(2000年)、東京都が基本条例を制定したのを皮切りに、多くの自治体がそれまでの活動や地域の特性を踏まえた条例を制定するようになった。
豊島区では平成14年(2002年)2月、『エポック10』開設十周年を記念して「男女共同参画都市宣言」が採択された。さらに翌平成15年(2003年)3月には、それまでの取り組みや成果を踏まえつつ、区が目指す都市の姿を前文に盛り込んだ「男女共同参画推進条例」を制定した。
男女共同参画政策はかつての「三種の神器」(専管組織・行動計画・拠点施設)にさらに法的根拠をもつ「条例」が加わり、新たなステージに入ったのである。

男女共同参画都市宣言(平成14年2月)
男女共同参画都市宣言(平成14年2月)

ただ、豊島区の財政は悪化の一途をたどり、この頃にはすでにのっぴきならない状況にきていた。多額の負債を抱え、それまで貯めていた庁舎の建設資金もすでに使ってしまった。平成11年(1999年)4月、高野之夫新区長は就任後、直ちに厳しい行財政改革を指示したが、もはや区の財政は簡単に建て直せるような状況ではなかった。毎年、毎年、事業予算や人件費を削り、削りつくしてもう捻出できるものはほとんどない状態だった。そしてとうとう施設の見直しに手を付けるしかないところまで来ていた。
一方、『エポック10』の賃料は毎年のように上がり、その額はかなりのものになっていた。すでに平成12年(2000年)にはメトロポリタンプラザの文化ホールが映画館に変わり、東武美術館も閉館していた。先の見えない景気低迷の中で、さらに見直しが必要になっていたメトロポリタンプラザは、より収益性を上げるために『エポック10』の退去を求めてきた。
実は、この頃、私は政策経営部長として行財政改革を断行する立場にあり、区民の身近な施設を「区民ひろば」に再構築しようとしていた。それは新たなコミュニティを目指しながら施設を効率的に使うという案だったが、同時に多くの痛みを伴った。そのような時期に『エポック10』に高額な家賃を支払うことなど許される状況ではなかった。施設の見直しを検討する会議が始まる前、会議室の隅でぼんやり資料を眺めていると、少し離れた席から「小野君、もう無理だよ」となだめるように高野区長が声を掛けてくれた。私は返す言葉が見つからず「ええ」とだけ答え、『エポック10』は開設した私が幕を下ろすしかない、と覚悟を決めたのを覚えている。

『エポック10』は民間の所長起用は深尾凱子さんで終わり、後任には藤沢愛子所長が就いていた。私は彼女に移転説明会開催の協力を求め、利用者・団体への連絡を頼んだ。
集まってくれたのは40名ほどだったが、その人たちを前に、私はこれまでの経緯を説明したあと、勤労福祉会館への移転をお願いしたいと話した。この『エポック10』を開設した課長として今回の移転は本当に忍びないが、どうか理解してほしいと頭を下げた。反対する人がいるだろうと思っていたが、だれひとり発言しなかった。ただじっと聞いてくれた。しばらく待って、最後に、今後はみなさんが二度とこのような思いをしないですむよう、安定した『エポック10』の運営をするために私なりに努力すると約束した。
説明会終了後も話し声はほとんどなく、静かだった。参加した人たちは、来る時が来た、という思いだったのだろうか。私は自分の役目を終え少し安堵したものの、区民はみな区の財政が厳しいことをよくわかっているのが身に沁みて、それがかえって切なかった。佐藤洋子さんに叱られるな、と思った。
『エポック10』は勤労福祉会館を改修した後に移転することが決まった。

それから一年半ほどした頃、一通の招待状が届いた。『エポック10』で会を開くという。タイトルは「ありがとう、エポック10」。勤労福祉会館に移転する2カ月前だ。利用者のなかの主だった人たちが企画したもので、これまでの出会いや学んだ数々に感謝する会とのことだった。
当日は佐藤洋子さんと庄司洋子さん、それに女性の区議会議員全員と開設時の職員が招待され、総勢50名ほどが再会を歓び合った。参加した人たちはもうすっかり気持ちを切り替えて、佐藤さんも庄司さんも懐かしい人達に囲まれ、にこやかに会話を弾ませていた。
しばらくして庄司さんが私のそばへ来て、「仕方ないわよ、小野さんのせいじゃないわ。豊島区には贅沢過ぎたのよ」と慰めてくれたが、設立に一番尽力された人からそう言われるのはちょっとつらかった。
最後に主催者から「メトロポリタンプラザの『エポック10』をいつまでも大切にして、また新しい時代を創っていきましょう」と挨拶があった。実にあざやかな人たちだった。
平成17年(2005年)3月、『エポック10』は勤労福祉会館3階に移転した。

豊島区を退職する前、再び、庄司洋子さんにお会いする機会があった。
その時、庄司さんは残念そうに「『エポック10』は若い人を取り込むことに失敗したわね」と呟いた。ドキッとした。図星である。庄司さんは長年、立教大学の学生を『エポック10』に連れて来てくれた。男子学生も交えてよく会議室で講義をされていた。
佐藤洋子さんも女子学生向けの講座を何年も開いていたが、佐藤さんが『エポック10』を去る前後にその講座はなくなった。
あの頃、私はどれだけ未来のことを考えて仕事をしていただろうか。どれだけ次の世代を意識して仕事に取り組んでいただろうか。
「これからの時代をつくる人たちにこそ、一人ひとりを大切にする価値観を持ってほしい」
—庄司さんのこの指摘は、今も私に一つの後悔として残っている。

私が知っているあの『エポック10』の話はこれだけである。

エポック10初代所長佐藤洋子さんと筆者-エポック10まつり‘94にて(平成5年6月)
エポック10初代所長佐藤洋子さんと筆者
-エポック10まつり‘94にて(平成5年6月)

関連年表

昭和50年6-7月【国連婦人の10年】国際婦人年世界会議(メキシコ)で「世界行動計画」採択
昭和57年4月1日総務課婦人問題主査設置
11月17日基本計画策定、婦人会館の建設が計画事業に位置付けられる
昭和60年4月1日婦人児童部婦人青少年課設置、初の女性課長就任(平成4年女性児童部女性青少年課に名称変更)
10月29日婦人問題懇話会(会長:藤竹暁学習院大学教授)発足
昭和61年8月6日芝浦工大付属高校跡地開発計画(新池袋駅ビル)運輸大臣認可
昭和62年10月14日豊島区婦人問題懇話会、「婦人問題解決に向けての三つの柱と九十の提言」をまとめ区長に提出
昭和63年1月28日豊島区婦人行動計画策定委員会設置(庁内組織)、懇話会の提言を基に同年11月「男女共同社会の実現をめざして-としま150プラン-豊島区婦人行動計画」策定
平成元年4月としま女性センター(仮称)開設準備委員会(委員長:庄司洋子立教大学教授)設置
6月「としま150プラン」区民会議設置
4月20日新池袋駅ビル(仮称)開発に伴う区・池袋ターミナルビル株式会社・東武鉄道株式会社の3者協定締結、女性センターの整備正式決定
平成3年12月5日「としま女性センター(仮称)」の愛称・シンボルマークを公募、「エポック10」に決定
平成4年4月10日聞き書き女性史「風の交叉点~豊島に生きた女性たち~」出版(H8.2までに第4集まで発行)
5月25日池袋ターミナルビル株式会社と賃貸借契約締結
6月10日メトロポリタンプラザ10階に男女平等推進センター(通称エポック10)オープン、初代所長を民間から登用(佐藤洋子元朝日新聞編集委員)
10月3日第1回佐藤洋子のインタビュートーク開催
10-11月女子学生のための就職講座(全5回開催)
平成5年6月11-13日輝いて!女と男 男女平等センター1周年記念「エポック10まつり」開催
平成10年5月男女共同参画推進懇話会設置
平成11年4月1日二代目所長を引き続き民間から登用(深尾凱子元読売新聞編集委員)
平成12年3月13日男女共同参画推進懇話会「21世紀への提言」を区長に提出
平成13年4月19日「としま男女共同参画推進プラン」策定
平成14年2月15日男女共同参画都市宣言
平成15年4月1日男女共同参画推進条例施行
平成17年3月1日男女平等推進センター勤労福祉会館へ移転

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