戸田市(ふみ)ある記マップ

笹目・早瀬コース

スタート
谷口の稲荷社
ゴール
宝蔵院
距離
約5km

戸田市内を南北に流れる笹目川の西に位置する笹目・早瀬地区を散策するコース。旧惣右衛門(そうえもん)村の谷口(やぐち)稲荷社(いなりしゃ)をスタートし、「宝暦(ほうれき)庚申塔(こうしんとう)」や、平等寺(びょうどうじ)の「石幢(せきどう)」、梅木稲荷(うめのきいなり)などを巡る。

1谷口(やぐち)稲荷社(いなりしゃ)

谷口の稲荷社

惣右衛門(そうえもん)村の鎮守(ちんじゅ)享保(きょうほう)5年(1720)に正一位(しょういちい)神位(しんい)を授けられたとされる。“六軒(ろっけん)もちの神”ともいわれ、かつては地元の六軒の家で、正月に燈明(とうみょう)をあげていたという。境内には額束(がくづか)の裏に明和(めいわ)2年(1765)の銘がある鳥居や、猿田彦大神の文字塔の庚申塔(こうしんとう)などがある。

2真福寺(しんぷくじ)

真福寺

薬王山(やくおうざん)と号し、谷口の稲荷社の別当寺(べっとうじ)であった。墓地には、旧惣右衛門名主(なぬし)の代々の墓がある。惣右衛門村は、江戸初期に新田(しんでん)開発責任者の名前・惣右衛門が村名として公認されたもので、その後の名主も代々惣右衛門を名乗った。

3宝暦(ほうれき)庚申塔(こうしんとう)圃中公園(はたけなかこうえん)

宝暦の庚申塔

庚申信仰は60年あるいは60日ごとに巡ってくる庚申の年や日に行われる民間信仰。この庚申塔には、宝暦14年(1764)2月の銘がある。見事な笠がつき、六手立像(ろくしゅりゅうぞう)青面金剛(しょうめんこんごう)が刻まれ、その両脇に二童子(にどうじ)邪鬼(じゃき)四夜叉(よんやしゃ)がついた重厚な作である。

4慈眼寺(じげんじ)

新義真言宗智山派(しんぎしんごんしゅうちさんは)に属し、さいたま市南区内谷の一乗院の末寺。東光山と号している。本尊(ほんぞん)薬師如来(やくしにょらい)武州足立百不動尊(ぶしゅうあだちひゃくふどうそん)44番となっている。

5梅木稲荷(うめのきいなり)

梅木稲荷

大正時代初めに突如としておこり、多くの参詣者で賑った“はやり神”である。その後、度重なる洪水や、大正12年(1923)の関東大震災で被害を受けて衰退した。現在は、往時の名残の石鳥居のかたわらで、小さな(ほこら)にまつられている。
写真は大正時代初期の梅木稲荷

パスファインダー

調べ方案内・戸田

子供向けしらべかたガイド

6平等寺(びょうどうじ)

平等寺

普門山蓮花院(ふもんざんれんげいん)と号す。市指定文化財の「明応(めいおう)の板碑」と「石幢(せきどう)」がある。「明応の板碑」は、庚申信仰が市域でも古くから行われていたことがわかる貴重なものである。「石幢」には、旧下笹目(しもささめ)村近郷の七カ村の名が彫られ、広域地蔵信仰の様子をうかがうことができる。

7笹目神社(ささめじんじゃ)

笹目神社神馬(ささめじんじゃしんめ)

笹目神社神馬

この神馬は木製の馬形(うまがた)と呼ばれるもので、かつて神前へ生馬(いきうま)を献上した風習の名残が見られる。江戸時代に九州から旧下笹目村に来た人形師が製作したといわれる。2体とも雄馬で、体高・体長とも約1mあり、全体を胡粉(ごふん)で丁寧に仕上げ、精巧に作られている。

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調べ方案内・戸田

8宝蔵院(ほうぞういん)

新義真言宗智山派(しんぎしんごんしゅうちさんは)に属し、創立年代は不明とされている。もとは平等寺(びょうどうじ)持ちの庵であり、何時の頃からか一寺になったと伝わる。

早瀬渡船場(はやせとせんば)

早瀬渡船場跡

早瀬の渡しは、戸田の渡しよりも古く、平安時代末には存在したと考えられる。また、この渡しから北へ延びる道筋は、旧鎌倉街道「中道(なかつみち)」の(わき)街道か枝道(えだみち)の役割を果たしていたのではないかといわれている。この道筋は、かつての佐々目郷(ささめごう)を南北に貫通しており、美女木八幡社(びじょぎはちまんしゃ)が創立を鎌倉時代といわれる古社であることからも、その当時より、早瀬の渡しが重要な渡しであったことが推測される。この渡しは、新河岸川(しんがしがわ)が完成した昭和5・6年(1930・1931)頃には、その機能を完全に果たし終えている。