戸田市(ふみ)ある記マップ

下戸田コース

スタート
下戸田氷川神社
ゴール
薬師堂
距離
約5.9km

戸田市東部を巡るコース。中山道(なかせんどう)の板橋宿と蕨宿の間にあった戸田の渡船場跡(とせんばあと)や、戸田橋(とだばし)親柱(おやばしら) (戸田橋親水公園)や中山道の説明板(せつめいばん)など、交通の要所としての中山道と関わりの深い史跡(しせき)を中心に巡る。

1下戸田氷川神社(しもとだひかわじんじゃ)

【下戸田ささら獅子舞(ししまい)

下戸田ささら獅子舞

江戸時代の寛政(かんせい)年間(1789~1801)頃に始まったといわれ、毎年、中町(なかちょう)氷川(ひかわ)神社の夏祭り(7月)と秋祭り(10月)に、疫病退散(えきびょうたいさん)五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈願して奉納される。「一人立ち三頭獅子舞」と呼ばれるもので、14ほどの演目を舞う。

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2正覚院(しょうがくいん)

文明(ぶんめい)2年(1470)に僧堯泉の開山(かいさん)と伝えられている。本尊(ほんぞん)不動明王(ふどうみょうおう)武州足立百不動尊(ぶしゅうあだちひゃくふどうそん)40番となっている。

3常福寺(じょうふくじ)

常福寺当麻曼荼羅
当麻曼荼羅

龍光山不退院(りゅうこうざんふたいいん)と号し、開山(かいさん)天誉万栄(てんよまんえい)と伝えられる。当寺には市指定文化財の「常福寺当麻曼荼羅(たいままんだら)」「寛政(かんせい)宝篋印塔(ほうきょういんとう)」「名号塔(みょうごうとう)」がある。「常福寺当麻曼荼羅」は、文政(ぶんせい)7年(1824)に深川(ふかがわ)本誓寺沙門(ほんせいじしゃもん)了門(りょうもん)礫川厳浄院住持了道(こいしかわげんじょういんじゅうじりょうどう)によって描かれたものである。

4戸田渡船場跡(とだとせんばあと)(記念碑)

戸田渡船場跡

板橋宿と蕨宿の間を流れる荒川にあった渡しで、旧下戸田(しもとだ)村により運営されていた。中山道の要衝(ようしょう)であり、江戸への玄関口として、参勤交代(さんきんこうたい)大名(だいみょう)皇女和宮(こうじょかずのみや)をはじめ、江戸時代を通じて多くの人々が通行した。明治8年(1875)の戸田橋架橋(かきょう)に伴い廃止された。

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5水神社(すいじんしゃ)

【川岸の獅子頭(ししがしら)

川岸の獅子頭

川岸の水神社(すいじんしゃ)の獅子頭は、もとは荒川のそばにあった羽黒権現社(はぐろごんげんしゃ)に古くから伝えられてきたものである。現在では、7月の水神社の祭礼のときに飾られる。色・形・大きさとも威容を誇る獅子頭である。

6地蔵堂(じぞうどう)

地蔵堂

創立年代は不明だが、市内最古の木造建造物と思われる。建物の規模からは不似合いなほど大きな木組(きぐみ)を使用しての虹梁(こうりょう)斗栱(ときょう)木鼻(きばな)など注目すべき点が多い。また、お堂の軒には、正徳(しょうとく)3年(1713)の銘がある半鐘(はんしょう)がかかっていた。(*現在は郷土博物館に寄託)

73代目戸田橋(さんだいめとだばし)親柱(おやばしら)(戸田橋親水公園)

旧戸田橋(鉄橋)の親柱

昭和7年(1932)に完成した3代目の戸田橋は鉄製のトラス橋で、当時の橋梁(きょうりょう)技術を集積した美しい橋として話題を呼んだ。この親柱はその鉄橋のもので、御影石(みかげいし)を積み上げ、頂部には照明が付けられたモダンな造りとなっていた。

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8稲荷社(いなりしゃ)

新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』などには記されていないが、下戸田の前新田(まえしんでん)のホラの神としてまつられている。

9中山道説明板(なかせんどうせつめいばん)(下戸田ミニパーク)

中山道

中山道は江戸・日本橋を起点とし、京都まで136里(約544km)、宿場(しゅくば)は東海道と合流する草津・大津を含めると69宿を数えた。市内を南北に貫く旧中山道は、荒川岸の「戸田渡船場(とせんば)」から始まっていた。市内の道筋の大部分は失われており、その面影はわずかしか残っていない。川岸の地蔵堂(じぞうどう)の西側を通る約200mの道筋と、本町交差点そばの下戸田ミニパーク脇を通る約80mの道筋の2カ所が、現在、市内に残る中山道の道筋であるといわれている。
写真は「中山道分間延絵図(ぶんけんのべえず)」。

10薬師堂(やくしどう)

新義真言宗智山派(しんぎしんごんしゅうちさんは)に属し、正覚院持ちの堂。本尊(ほんぞん)薬師如来(やくしにょらい)

ボートコース( )

聖火台とボートコースでの競技

当初、荒川左岸の排水路新設工事として計画され、その後、運河計画、貯水池計画へと設計が変更された。そこへ、昭和15年(1940)の第12回オリンピック東京大会の漕艇場(そうていじょう)を戸田へ誘致しようという動きが加わり、ボートコースが造られることになった。オリンピック自体は、戦争の影響で返上・中止となったが、治水工事の一環であったため工事は継続され、昭和15年に完成した。その後、昭和39年(1964)の第18回オリンピック東京大会では、漕艇競技会場となった。全長2,400m、幅90mで、全国でも数少ない静水(せいすい)コースである。
写真はボートコースとオリンピック聖火台(第18回オリンピック東京大会当時)

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