戸田市史ある記マップ
下戸田コース
- スタート
- 下戸田氷川神社
- ゴール
- 薬師堂
- 距離
- 約5.9km
戸田市東部を巡るコース。中山道の板橋宿と蕨宿の間にあった戸田の渡船場跡や、戸田橋の親柱 (戸田橋親水公園)や中山道の説明板など、交通の要所としての中山道と関わりの深い史跡を中心に巡る。
- 1.下戸田氷川神社
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- 0.3km
- 2.正覚院
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- 0.8km
- 3.常福寺
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- 1.8km
- 4.戸田渡船場跡(記念碑)
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- 0.1km
- 5.水神社
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- 0.2km
- 6.地蔵堂
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- 0.6km
- 7.3代目戸田橋の親柱(戸田橋親水公園)
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- 0.9km
- 8.稲荷社
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- 0.8km
- 9.中山道説明板(下戸田ミニパーク)
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- 0.4km
- 10.薬師堂
1下戸田氷川神社
2正覚院
文明2年(1470)に僧堯泉の開山と伝えられている。本尊は不動明王。武州足立百不動尊40番となっている。
3常福寺
龍光山不退院と号し、開山は天誉万栄と伝えられる。当寺には市指定文化財の「常福寺当麻曼荼羅」「寛政の宝篋印塔」「名号塔」がある。「常福寺当麻曼荼羅」は、文政7年(1824)に深川の本誓寺沙門了門、礫川厳浄院住持了道によって描かれたものである。
4戸田渡船場跡(記念碑)
板橋宿と蕨宿の間を流れる荒川にあった渡しで、旧下戸田村により運営されていた。中山道の要衝であり、江戸への玄関口として、参勤交代の大名や皇女和宮をはじめ、江戸時代を通じて多くの人々が通行した。明治8年(1875)の戸田橋架橋に伴い廃止された。
5水神社
6地蔵堂
創立年代は不明だが、市内最古の木造建造物と思われる。建物の規模からは不似合いなほど大きな木組を使用しての虹梁、斗栱、木鼻など注目すべき点が多い。また、お堂の軒には、正徳3年(1713)の銘がある半鐘がかかっていた。(*現在は郷土博物館に寄託)
73代目戸田橋の親柱(戸田橋親水公園)
昭和7年(1932)に完成した3代目の戸田橋は鉄製のトラス橋で、当時の橋梁技術を集積した美しい橋として話題を呼んだ。この親柱はその鉄橋のもので、御影石を積み上げ、頂部には照明が付けられたモダンな造りとなっていた。
8稲荷社
『新編武蔵風土記稿』などには記されていないが、下戸田の前新田のホラの神としてまつられている。
9中山道説明板(下戸田ミニパーク)
中山道は江戸・日本橋を起点とし、京都まで136里(約544km)、宿場は東海道と合流する草津・大津を含めると69宿を数えた。市内を南北に貫く旧中山道は、荒川岸の「戸田渡船場」から始まっていた。市内の道筋の大部分は失われており、その面影はわずかしか残っていない。川岸の地蔵堂の西側を通る約200mの道筋と、本町交差点そばの下戸田ミニパーク脇を通る約80mの道筋の2カ所が、現在、市内に残る中山道の道筋であるといわれている。
写真は「中山道分間延絵図(ぶんけんのべえず)」。
パスファインダー
調べ方案内・戸田
子供向けしらべかたガイド
10薬師堂
新義真言宗智山派に属し、正覚院持ちの堂。本尊は薬師如来。
ボートコース
当初、荒川左岸の排水路新設工事として計画され、その後、運河計画、貯水池計画へと設計が変更された。そこへ、昭和15年(1940)の第12回オリンピック東京大会の漕艇場を戸田へ誘致しようという動きが加わり、ボートコースが造られることになった。オリンピック自体は、戦争の影響で返上・中止となったが、治水工事の一環であったため工事は継続され、昭和15年に完成した。その後、昭和39年(1964)の第18回オリンピック東京大会では、漕艇競技会場となった。全長2,400m、幅90mで、全国でも数少ない静水コースである。
写真はボートコースとオリンピック聖火台(第18回オリンピック東京大会当時)