足もとからの手紙

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紙で書かれなかった恵庭の歴史
恵庭二万年。北から南から、さまざまな人と文化がやってきた
[旧石器時代]
約二万年前、氷河期とよばれた寒冷な時代に、当時陸続きだった間宮海峡・宗谷海峡をわたり、北方から人間が渡ってきました。彼らは南下してきたマンモスやヘラジカを追ってきた狩猟の民で、定住せず、石器を主要な道具として使っていました。

この時代を旧石器時代とよんでいます。旧石器時代の遺跡は、恵庭市内からはまだ出土していませんが、すぐ近くから約二万年前とされる千歳市祝梅三角山遺跡が見つかっています。

[縄文時代]
約九,〇〇〇年前、北海道に初めて土器が登場します。縄文時代の幕開けです。土器は、食べ物を煮炊きし貯蔵することで、それまでの生活を大きく変えました。人々は、竪穴式の住居で暮らし、定住して、ムラを作るようになります。道具の数や種類も豊富で、弓矢が使われるようになり、身を飾るアクセサリーも広がります。穀物の栽培も縄文時代から始まっています。最近では、青森県の三内丸山遺跡や函館市の中野B遺跡のように、それまでの常識をくつがえすような大規模な集落が発見され、狩猟・採集文化が、想像するよりもはるかに豊かだったことも分かってきました。縄文時代に対する見方は大きく変わろうとしています。恵庭には、円形の共同墓地である「環状土籬(かんじょうどり)」があった柏木B遺跡など、縄文時代の遺跡が数多く発見されています。

[続縄文時代]
約二,〇〇〇年前、稲作の伝来とともに生まれた弥生文化は、南から北上し東北地方に達しました。しかし寒冷地の北海道に稲作は伝わらず、鉄器の使用など弥生文化の影響を受けながら、縄文文化を受けつぐ生活の形がつづきます。これを北海道独特の続縄文文化とよびます。鉄器と石器が使われたことから「鉄石併用文化」ともよばれる続縄文文化は、最初は石狩低地帯を境界に北海道北東部と南西部で地域的な差を持っていましたが、後半には北海道全域から東北地方におよぶ文化圏を形成します。

[擦文時代]
七世紀~八世紀ころ、本州からの鉄器の供給が増え、人々は石器を捨てて鉄器を使用。かまどを持つ竪穴住居に住むようになります。本州の土師器や須恵器なども使われましたが、その影響を受けて、木のヘラでこすったような跡を持つ擦文土器が誕生します。これを擦文文化とよびます。またこの時期、オホーツク海沿岸部を中心に、オホーツク文化が北方から渡来します。恵庭や江別では南の本州文化の影響が色濃い北海道式古墳が作られています。南と北の影響を強く受けながら、擦文時代は一三世紀前後まで続き、アイヌ文化が成立していきます。

◆恵庭の先史時代