江戸時代の恵庭を見た男たち

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 イザリブトイザリモイザリシママップなどの地名を持つ恵庭。江戸時代、これらの土地に住んでいたのは、いうまでもなくアイヌ民族でした。しかしアイヌ民族は、歴史や物語など豊かな文化を口伝えで伝え、文字を残さなかったため、当時の恵庭の様子を知るのには和人の記録に頼るしかありません。交通の要衝である恵庭を、多くの人々が通り過ぎ、記録を残しています。江戸時代の恵庭。彼らはそこで何を見たのでしょうか。
 
イザリの長 ヌカンランケ
一七九一年(寛政三)、最上徳内一行が東蝦夷地を探検しますが、そのときの記録とされているのが『東蝦夷道中記』です。このなかに漁場所の記述があり、乙名(長)ヌカンランケのもとに一二人のアイヌ住民がいたと書かれています。

 
金四郎父、イザリでかがり火をたいて寝る
一八〇六年(文化三)、幕府目付遠山金四郎景晋(かげくに)ら一行が、西蝦夷地視察の帰りにシママップイザリを通ったことを、『東海参誇(とうかいさんたん)』が記しています。闇のなかイザリ(イザリブトか)に着いた一行は川の両側に千点のかがり火をたき野宿しますが、その明るさは白昼のようだつたといいます。景晋は、このときイザリブトに通行屋を建て、番人にリキヤカ、シュヒタの二人を雇うことに決めました。ところが、その給料としてツイシカリの長シレマウカの漁場を取り上げて二人に渡したために、その後大問題となります(←P21)。景晋は、「遠山の金さん」で有名な北町奉行遠山金四郎景元の父。金四郎父は、名奉行とはいかなかったようです。

 
松浦武四郎の視線
幕末の探検家松浦武四郎は、「北海道」という名の名付け親としてよく知られています。武四郎は、一八四六年(弘化三)の二回目のエゾ地探検でイザリフト・シママップを訪れ、『再航蝦夷日誌』に克明な記録を残しています。それによると、シママップには番屋とともにアイヌの住居が三、四軒あり、土地が肥沃で野菜がよくできるとしています。またイザリブトには立派な番屋や蔵、アイヌの住居が五、六軒あり、豆・ヒエ・アワ・ジャガイモなどを作り、鹿肉や沼のヒシの実(ペカンペとよばれるアイヌの伝統食)を大切な食糧にしていたことを記しています。

また一八五八年(安政五)最後の探検で訪れたときには、広がる畑を見て「蝦夷人の いざりの里に たなつもの 穂波よすとは 思ひかけきや」と詠んでいます。
 
イザリブト番屋の図『再航蝦夷日誌』より

◆カマカより二嶽眺望の図

五回にわたってエゾ地全土を歩いた武四郎の視線は、常に先住民であるアイヌにそそがれ、アイヌの人々や文化への尊敬と横暴で非人間的な和人のふるまいへの怒りが、記録のなかににじんでいました。その気骨は、明治になり開拓判官に任ぜられたとき、政府のアイヌ民族への施策に抗議して辞任し、官位も返上したというところにも表れています。
松浦武四郎(北海道立文書館)

山田文右衛門と恵庭最古のお墓
一八二一年(文政四)、山田文右衛門(八代有智)は勇払場所の請負人となりますが、幕末・明治まで山田家とイザリシママップは深い関係を持ち続けてきました。十代山田文右衛門清富は、安政年間に札幌越え新道を開いたり、初めて昆布の養殖をしたことで知られている人物。イザリシママップの番屋には山田屋の番人が駐在していました。

山田文右衛門(十代清富)

恵庭に、いま見つかっているもののなかで最も古い墓碑があります。そこには「山田屋金兵衛墓」とあり施主山田仁右衛門の名と文久元年(一八六一)五月二三日の日付が刻まれています。金兵衛は山田文右衛門の支配人ともいわれますが、よくわかりません。施主の山田仁右衛門は、十代文右衛門清富の娘婿の榊富右衛門と思われます。恵庭に眠る金兵衛がどのような人物だったのか、墓碑は何も語ることなくたたずんでいます。
 
◆山田屋金兵衛の墓