中世関東の要、平井城と関東管領上杉氏の盛衰

Hirai Castle and Uesugi

室町時代、鎌倉府で関東の統治にあたった鎌倉公方の補佐役として大きな権勢を振るったのが関東管領です。足利将軍家と縁の深い上杉氏が関東管領を務めることが多く、上杉氏の諸流が関東の各地で繁栄します。なかでも山内上杉氏は宗家として大きな力をもち、関東管領を多く輩出しました。山内上杉氏は上野国守護として上野国を地盤としており、その拠点となったのが平井城です。

平井城と関東管領の歴史chronology

上野国を地盤とする山内上杉氏は、地元上野国の武士たちにとっての主という面があります。関東管領の拠点・平井城を守るため活躍した小林氏も、こうした上野国武士のありかたのひとつを物語ります。しかし小田原北条氏の攻勢に上野国武士も北条氏に与するものも多く、憲当は平井城を出て越後の長尾景虎のもとへ逃れ、さらに関東管領職を景虎へ譲ることになります。

  • 和暦(西暦)
    できごと
  • 建武元年(1334)
    3月 小林重政が父・重季から大塚郷・中村の地頭職を引き継ぐことを上野国国司に申請、国司の新田義貞が承認する。〈小林重政言上状〉
  • 正平4年・貞和5年(1349)
    足利将軍家の内紛(観応の擾乱)により、足利尊氏が子の足利基氏(初代鎌倉公方)を鎌倉へ派遣して鎌倉府を設置、関東支配の拠点とする。
    このとき幼い基氏を補佐した執事(後の関東管領)上杉憲顕の家系(山内上杉氏)を中心とした上杉氏が、後に関東管領を世襲することとなる。
  • 応永26年(1419)
    上杉憲実、関東管領に就任する。
  • 永享10年(1438)
    足利持氏(第4代鎌倉公方)と上杉憲実が室町幕府を巻き込み争う。(永享の乱)
    このとき上杉憲実、鎌倉山内を出て上州平井に退去という。〈喜連川判鑑〉
    一説に、永享の乱に際して上杉憲実が家臣の長尾忠房に平井城を築かせたという。
  • 永享11年(1439)
    鎌倉公方足利持氏、自害。
    上杉憲実、足利学校(栃木県足利市)に書籍を寄進し再興。後に足利学校は宣教師により「坂東の大学」として世界に紹介される。憲実寄進の書籍は、貴重な中世書籍として現存、国宝等に指定。
  • 永享12年(1440)
    旧・足利持氏派の結城氏朝・結城持朝が、持氏遺児の春王丸・安王丸を擁立して反乱を起こす。(結城合戦)
    9月 小林尾張守が武蔵国へ出陣、これを上杉憲実がねぎらう。〈上杉憲実書状〉
  • 文安5年(1447)
    上杉憲忠、関東管領に就任する。
  • 享徳3年(1454)
    足利成氏(持氏遺児)が鎌倉の上杉憲忠を暗殺、関東地方は戦乱に突入。(享徳の乱)
  • 康正元年(1455)
    足利成氏、古河(栃木県古河市)を拠点とし古河公方(こがくぼう)を称す。
    上杉房顕、関東管領に就任する。
    上杉房顕は上州平井に住し、後に「鎌倉山ノ内」に移るという。〈喜連川判鑑〉
  • 文正元年(1466)
    2月 上杉房顕、五十子陣(いかっこのじん)(埼玉県本庄市)で古河公方足利成氏と対陣中に没す。
    上杉顕定、関東管領に就任する。
  • 15世紀後半(1450~)
    平井城跡から、この時期からの遺物が出土している。
  • 応仁3年(1469)
    上杉顕定、越後より移って上州平井城を築いて立て籠もり、成氏と合戦たびたびに及ぶという。〈鎌倉九代後記〉
  • 長享元年(1487)
    11月 山内上杉氏と扇谷上杉氏が抗争をはじめる。(長享の乱)
  • 永正7年(1510)
    上杉顕定、越後国守護代長尾為景と長森原(新潟県六日町)で戦い、敗死。
    上杉顕実、関東管領に就任する。
  • 永正9年(1512)
    上杉憲房(憲実の孫・顕定養子)、武蔵国鉢形城(はちがたじょう)(埼玉県寄居町)の上杉顕実を攻め落とし、山内上杉氏の家督を掌握する。(永正の乱)
  • 永正12年(1515)
    上杉憲房、関東管領に就任する。
  • 大永5年(1525)
    上杉憲房、没。
    「上州緑野郡平井ノ城二在住シ・・・卒ス」〈関八州古戦録〉
    「上杉五郎憲房、上州高山庄平井の陣にて病死す」〈鎌倉九代後記〉
    上杉憲寛、関東管領に就任する。
  • 享禄4年(1531)
    上杉憲政、関東管領に就任する。
  • 天文14年(1545)
    上杉憲政(山内上杉)・上杉朝定(扇谷上杉)の両上杉氏が、北条氏綱の守備する河越城(埼玉県川越市)を包囲し奪還をねらう。(河越合戦)
    8月18日 上杉憲政が、小林平四郎へ河越城の北条氏と戦うために出陣の要請をする。〈上杉憲政書状〉
  • 天文15年(1546)
    4月 上杉憲政・上杉朝定・古河公方連合軍、河越合戦で北条氏に大きく敗北。
    河越合戦敗北を契機に憲政は憲当と改名、花押の形も変える。
  • 天文17年(1548)
    12月5日 国峰小幡氏の平井城攻めに小林平四郎が交戦して戦功をあげるが負傷、これを平井城の上杉憲当がたたえる。〈上杉憲當書状-1〉
  • 天文19年(1550)
    11月7日 北条氏康の平井城攻めに抗し小林平四郎が何日も奮戦、これを平井城の上杉憲当がたたえる。〈上杉憲當書状-2〉
  • 天文21年(1552)
    2月~3月 北条氏康、平井城近隣の御嶽城(みたけじょう)(埼玉県神川町)麓の金讃山(現、大光普照寺・金鑚神社)を焼き払い、御獄山城が落城。憲当に味方していた上野国の国衆たちの離反が相次ぎ、憲当が平井城から退去する。〈仁王経科註見聞私〉
    こののち、平井城は小田原北条氏の管轄となり、地盤を失った憲当は越後国へ移る。
    3月20日 小田原北条氏、戦闘により避難していた三波川谷(さんばがわだに)・北谷(藤岡市)の百姓に村への帰住を求める。〈飯塚家文書〉
  • 天文22年(1553)
    3月18日 北条氏康、市日を定め高山彦五郎へ管轄させる。〈高山茂家文書〉
    市が立ったのは平井城下(西平井)あるいは金井、東金井か。
  • 永禄4年(1561)
    越後国の長尾景虎、関東へ侵攻。小田原北条氏勢の守る平井城を落城させる。
    これにより景虎が平井城を廃城にしたと伝わる。
    閏3月 景虎、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)で山内上杉家の家督と関東管領職を継承。
  • 永禄9年(1566)
    9月 甲斐国の武田信玄、榛名山麓の箕輪城(みのわじょう)(高崎市)を落城させ、上野国侵攻の足がかりを得る。
    こののち、藤岡市域を含む西上野地域は武田氏の勢力範囲となっていく。
  • 永禄10年(1567)
    5月4日 小林監物が、武田信玄から保美・森之郷・中村などの領地を与えられる。〈武田信玄安堵状〉
    5月4日 武田信玄が領地替えをおこない、小林監物に中栗須・下栗須・大塚・篠塚を与える。〈武田信玄知行充行状〉
  • 天正5年(1577)
    11月24日 武田勝頼が、主人を持たない森之郷の者を小林斎が召し使うことを再確認する。〈武田勝頼朱印状〉
  • 天正6年(1578)
    3月 上杉謙信(景虎)、没。
    養嗣子の景勝・景虎のあいだで家督争いが起こる。(御館の乱)
  • 天正7年(1579)
    3月 上杉憲当(前関東管領)・景虎、上杉景勝に滅ぼされ、御館の乱が終息。
    憲当、享年55・6歳。
  • 天正10年(1582)
    3月 甲斐国武田氏滅亡。
    こののち、武田氏にかわり上野国へ織田信長勢力が侵攻。
    5月17日 織田信長家臣・滝川一益が、小林松隣斎に豊岡・大塚・森・中村郷などを領地に与える。〈滝川一益知行充行状〉
    6月 信長の死〈本能寺の変〉により一益が上野国を退去。
    こののち、上野国には広く小田原北条氏の勢力が及ぶ。
  • 天正18年(1590)
    松隣斎の孫・藤田主膳が豊臣方に付き小田原北条氏攻めに参戦、功績をあげる。〈小林家家譜〉

平井城と平井金山城Hirai Castle・Hiraikanayama Castle

北流する鮎川の左岸・河岸段丘上に築かれた平城です。段丘の崖面に接して東西100m・南北90mほどの本丸をもち、本丸の西から北方向にかけ、二の丸・三の丸・ささ郭・帯郭・総郭などを配しています。発掘調査で16世紀のなかばに大きな拡張・改修工事が行われたことが判明、これは上杉憲当の平井城退去の契機となった北条氏康の平井城攻めの時期に重なります。憲当退去後の平井城は北条氏の拠点となり、その後長尾景虎と北条氏との抗争のなかで廃城となったと伝わります。築城については、後世の資料に15世紀であることを物語るものがあり、史実の解明が待たれています。
平井城の西には自然の要害である丘陵が迫っており、平井金山城はその丘陵の頂部・尾根に築かれた山城です。平井城と平井金山城との高低差は190mあまり、平井金山城の南側は急峻で、この方面からの攻略は難しそうです。発掘調査で戦国時代の石垣や堀割が確認され、それらの状況、また東方麓の平井城から登りやすい構造から、平井金山城は平井城の詰城(最終的な拠点)として築かれたと考えられています。


小林家文書Old documents of the Kobayashi-ke

小林家は鎌倉時代の終わりから室町時代の初めにかけて、上野国大塚郷(群馬県藤岡市上大塚・中大塚・下大塚) 周辺の地頭であった武士です。中世には関東管領家、そして甲斐武田家といった東国の伝統的勢力と行動をともにし、戦国時代末には豊臣方について小田原攻めに加わり、戦乱の時代を生き抜きました。子孫の家に伝来する中世文書のなかに、小林家の歴史・活躍と平井城、藤岡を見ていきます。
※史料名の後ろに(現代語訳あり)とあるものについては、目録の解題・説明に現代語訳を記載しています。