銭亀沢火山噴出物層は湯川トラピスチヌ修道院付近から銭亀沢にかけて広く分布し、鈴木 長谷川(1963)によると、函館の第2段丘(赤川段丘)堆積と第3段丘(日吉町段丘)堆積との間に堆積したもので、20メートル以上の層厚を有する真白な浮石(軽石)混りの火山灰層により構成されている。これだけ多量の火山灰がどこから飛来したかはまだ明らかでないが、青森県下北半島の恐山火山の噴出によってもたらされた可能性が非常に強いとされている。しかし瀬川(1970)によるとこの堆積物は第3段丘形成後に堆積したもので、″銭亀沢火山灰層″中の浮石が円味を帯び、原地形の低い所に厚く、高い所に薄く堆積することは、この堆積物が火山灰層ではなく、軽石流堆積物であることを示している。また、この堆積物が一般的には松倉川と汐泊川にはさまれた地域に厚く、松倉川以西では急減し、汐泊川以東でも極めて薄くなることは、″銭亀沢火山灰層″が恐山起源ではなく、北方起源であると思われるが、その噴出源は前記のように明らかでない。
湯の沢層は三谷ら(1965)によると湯の沢上流の北方に湯の沢凝灰岩層(新第3紀層中新世下部)および、茂辺地川層(新第3紀層中新世上部)を不整合に覆って小規模に発達している。この層は浮石を多く含む凝灰岩、凝灰質砂岩、粘土質泥岩の互層から成り、非常に軟弱な岩様を示している。砂岩の中には礫をかなり多く包含しており、標高300メートル付近に基底面をもったほぼ水平な陸成堆積層である。岩相の固結状態や分布状態から、洪積世前期あたりの内陸湖盆堆積物ではないかとみられている。
元町層は函館山の御殿山東麓にのみ、小規模に分布している地層で、函館山斜面の切り取りを行った土木工事によって偶然に出現したものである。全体の分布範囲や、ほかの地層との関係などは明らかでない。鈴木 長谷川(1963)によると、主に凝灰質の砂層から成り、下部には多数の溶結凝灰岩の角礫を包含している。ほとんど水平に近い堆積をしたものと思われるが、著しい偽層が発達している。この砂岩はぬれている時はやや緑がかった色を示すが、乾くと白っぽくなり、かなり軟質ではあるが塊状に取り出せる程度には固結している。元町層の時代について鈴木 長谷川(1963)によると、おそらく第4紀の初め、あるいは中ごろになる可能性もあるとされ、三谷勝利ら(1965)も、元町層は函館山火山噴出物の火山活動時期よりも遅れた時期のもので、山麓にへばり付いた形で形成された洪積世のものと考えている。
文月層は三谷勝利ら(1966)によると、主に函館平野の西側周辺地域に発達する丘陵性山地や河川流域に広く分布するもので、未凝固の礫層、砂礫層から構成された不規則互層累(るい)層で、砂層、粘土層、亜炭、火山灰を介在している陸成堆積層である。これは寒冷期の堆積層であり、隣接地域の陸成層との分布形態や構成岩相との類似性から、ドナウ氷期あるいはギュンツ氷期に対比されている。
市の渡礫層は三谷勝利ら(1966)によると、函館平野の西側に文月層および先第4紀層を覆って発達している陸成堆積層で、標高60ないし80メートルから200ないし250メートルの間に分布する。文月層と同じく礫質岩相を主とする陸成層であるが、市の渡礫層は最大径50センチメートル以上に達する巨礫を多く含む。淘汰(とうた)の悪い特徴的な礫質岩相が主構成層で、この点から両層は区分できる。礫種は安山岩礫や付近の先第4紀層構成岩礫より成る。大野川中・上流、戸切地川中流、水無川などの流域では、市の渡礫層と河岸段丘堆積物との関係が明らかでない所もみられる。
[地層図2]
[地層図3]