現存する資料の中で人口・戸数を知り得る最も古いものは、天明5(1785)年の『
蝦夷拾遺』に記載されたものである。この書によると
箱館村戸数約450戸、人口約2,500人となっている。また、今日の函館市の行政区域内に入る上山、鍛冶、上湯川、下湯川、亀田、
尻沢辺、紫海苔(志海苔)、銭亀沢、潮
泊(汐
泊)、
石崎の各村を含めると、戸数約790戸、人口約4,130人となる。次に享和元(1801)年までは資料が少ないが、この年までの約15年の間には、戸数は若干増加しているが人口は停滞している。その後文政3(1820)年までは戸数・人口共に緩慢な増加を続ける。文化元(1804)年から文政元(1818)年までの年平均人口増加率は2.5%で、緩慢な人口増加を示し、文政元年から天保12(1841)年までは年平均人口増加率3.5%と若干増加の傾向が強まる。この傾向は嘉永3(1850)年まで続く。しかし、その後の安政4(1857)年までは年平均人口増加率は1%を下回り、停滞気味となる。安政4年から文久元(1861)年までの4年間は元の増加率にもどって2.8%となる。続く文久元年から元治元(1864)年までの3年間は急激な増加を示し、増加率は18%となる。この傾向は次の慶応3(1867)年まで続く。戸数の増加も人口の増加とほぼ類似した傾向を示している。
維新前の男女別人口数で知られている最も古いものは享和3(1803)年のものであり、文政2、3(1819、1820)年の2年を除くと、得られる資料の中では女性の人口が男性の人口より多い。これは
江戸時代を通じての全国的な傾向であって、乳幼児の男子の死亡率が極めて高かったことによるものと解釈される。
維新前の人口・戸数の推移