エドワード・シュベスター・モースは、函館に来遊する前年の明治10年に東京の大森貝塚を発掘し、明治12年に英文『大森貝塚』と邦文『大森介墟編』の2論文を東京大学理学部の最初の紀要に発表しているが、日本考古学界で初めての学術報告書といわれている。この2人の研究を読み比べると、ミルンは大森貝塚をアイヌ民族が北海道に来る前に残した貝塚と考えたのに対して、モースはアイヌ人はエスキモー人やアリュート人と同じく土器を作らない人種で、大森貝塚人のように土器を作った人種をアイヌ民族以前のものであると考えた。更に人骨が野猪や鹿の骨に混っていたことから、日本古代人に食人の風習があると述べ、当時の日本人に大きな衝撃を与える結果となった。