先史時代の文化を知る手がかりは、何千年も経過した後に残されたものしかない。石器などから狩猟や漁労を営んでいたと考えられているが、春日町遺跡では絵を描いた石が発見された。彫り刻んだ線描きの舟と漁網の絵である。航海の護符であったのであろうか。原始絵画の最初のものである。縄文文化の初期には、いろいろな生活用具があったであろうが、残された遺物の一つ一つを観察すると意外なまでに人間の知恵と生活の努力が見受けられる。例えば手造りの土器にしても、器形や文様に思考が凝らされている。″土器の一片はへロドトスの大巻に勝(まさ)る″と言われるように、1個体の土器片を何十片も組合わせて復原し、改めて観察すると土器の厚さは形の大小によって異なるが、個体ごとの厚さは一定でどの部分を計測しても誤差は1ミリメートル前後と正確である。これは土器を焼き上げるには厚さが一定でないと壊れるところから、厚さに注意が払われた結果である。体験から生み出された技術は、生活用具のどれよりも土器に顕著に見られる。金属のない石器時代に求め得る各種道具の材質は、粘土のほか石、骨、木などに限られており、道具の用途と材質はおのずと決められていた。木の繊維や動物の骨角は季節によって材料採集ができるが、適期を過ぎると求め得られない。石器も用途と石質がはっきり区別されていて、鋭利な刃物や、矢の先に付ける石鏃とか石槍は硬質の頁岩、メノウ、黒曜石が用いられ、石斧には石英片岩、石英安山岩などが用いられた。
狩猟具で縄文時代に発達したのは弓矢である。弓は木質か竹質であったため、何千年間の間に腐食したが、矢の先に付けた石鏃は遺跡に残された。この石鏃は縄文時代の各時期や地域によって形態や石質が違い、弓がなくても石鏃から発達の過程が推定できる。函館の縄文早期で貝殻文尖底土器が造られた時期の石鏃は、多く三角形石鏃で基部にえぐり込みがある。西日本では三角形石鏃でも鍬(くわ)先形をしているが、東日本では縄文早期の石鏃はほとんど三角形石鏃である。狩猟具に投げ槍もあったが、縄文早期の石槍は長さが5ないし11センチメートルほどの小形のものが多い。エゾシカなどの動物をこのような小形の狩猟具だけで捕えることができたのか信じがたいが、近ごろ遺跡の住居群や遺跡からやや離れた小高い丘の斜面に動物の落し穴と考えられるものが、一定方向に配列されているのが発見されてきた。エゾシカの大群の通過するところに深い落し穴の仕掛をすれば、捻挫(ねんざ)や脱臼のシカを捕えることは容易である。弓矢や槍は陸獣だけでなく、海獣や魚を捕るのにも使われた。いかに多くの動物を捕えていたかは、肉切り用の石器や皮剥ぎ用の石器が、石鏃や石槍よりも多く出土していることからも推察できる。
この時期の漁労具は道南地方をはじめ道東北地方では資料が少ないが、関東地方では骨角製の釣針と銛が作られていた。実験によると骨角製釣針は疑似餌の役割をする。函館周辺では漁網が用いられていた。住吉町、梁川町遺跡など貝殻文尖底土器の遺跡から多量の石錘が出る。このことは前に述べたが、偏平な自然石を打ち欠いただけの石のおもりである。住吉町遺跡では600個も出土している。また春日町遺跡で舟と漁網の絵のある石が出土していることから、刺網とか投網の技術がこの時代に行われていたことがわかる。600個の石錘の発見からうかがえるのは、かなり発達した漁労文化があったであろうということである。漁網の材料は木の繊維に求められる。春に石斧で木の皮を剥ぎ取り、水にさらし、内皮の柔らかで丈夫な、しかも長い繊維を束ねて乾燥し、もみほごしながら縄造りが行われていた。石錘の量から推定して多量の繊維が用意されなければならないであろうから、網作りも漁労も共同作業を必要とし、部族集団の全員が動員されたことと思われる。漁網の発達によって多量に捕れた魚は分配され、乾燥保存も行われていた。多量の食料の獲得によって函館山の麓や対岸の梁川町、根崎町などにも村ができた。